tinc さんの日記
2020
5月
23
(土)
21:10
本文
今日はある知人から連絡があり、途中何度か間を置きつつ何時間か通話をした。彼女の話の主題は新型ウイルス感染症の影響で家族が常に在宅している状況が辛く感じられるということと、お子さんは休校、配偶者の方は出勤が始まっているものの土日と祝日は在宅しているので状況が改善されたと感じられず、精神的に疲弊しているということだった。以前なら自分で消化できた配偶者の方やお子さんの言動に対する感情が消化されずに内面に蓄積しているかのような感じ方であると彼女は言い、家族のどのような言動に対してどのような感情が生じるかを列挙することに通話の時間の大半が費された。
最後に彼女は「愚痴ばっかりでごめん」と言い、私は「いや」と返答して通話は終了した。しかし私の頭の中には彼女の最後の言葉が残り、いくつかの考えに派生していった。
愚痴というものは聞く側が優位、言う側が劣位という優劣関係を形成することが多いのではないかと思う。愚痴を聞く側は「聞いてあげる」姿勢であり言う側は彼女のように「愚痴を言って申し訳ない」という意思を表明することになるという状況をよく見る。しかし私は明らかに彼女の話を聞くことを自らの意志によって選択しているのであり、聞きたくない話を聞かされたということではないから何らかの被害を受けたわけではない。愚痴を聞くと嫌な気持ちになるという人もいるが、私は人間には常に暗く否定的な側面が存在するものと思うので、明るい話だけの時もあってよいと思う一方で暗い話だけの時や両方がない混ぜになった話の時もあってよいと思う。
彼女が愚痴を言うことに罪悪感を持っているとしたらそれは私にとっては悲しいことでもあり、それは「私が自分の暗く否定的な側面を表現すると、あなたは私を遠ざけるだろう」と言われているような気がするからである。おそらく彼女と私の間には辛いことも分かち合えるほどの信頼関係は未だ形成されておらず、私はこれまでの自分の言動や態度をふり返り不信に繋がるものが無かったかを考えなければならない。
別の点では、彼女が愚痴を言う相手に事欠いているのではないかという懸念がある。私は他人の話を聞くにあたり硬直したような相槌を打つことで全てを終わらせる傾向が強く、決して聞き上手という類の人物ではない。私に何かを話すことは壁に向かって話すこととあまり変わりが無い。共感や受容のような要素が無いので、心理的な満足を得ようとするなら私には話さない方がよかろうと思う。現に彼女が私に話をするというのは、彼女が社会的な繋がりに乏しく他に相手がいなかった可能性も考えられる。それは危険な要素であり、疲弊し消耗してゆく状況にあるらしい彼女を閉塞へ行き着かせることが予想される。
彼女と私は同じ大学の同じ学部に在席していて、そして同じ時期に中退した。私の感じる彼女の行動の傾向として、自ら思考を重ねて到達した結論に従って行動するものの、その結果に関して多くの疑念を持つというものがある。本当にこれでよいのか、今の状況はあるべき姿なのか、ということを常に考えている人という印象である。彼女とは同じ倫理学を選考していて何度か議論をした。彼女はいつも私より優れていたが、決して満足することは無かった。私が経済的な困窮から退学届を提出した数日後、彼女は「自分を信頼できない」という理由で退学届を書いた。
私は彼女のことを心配することがあるが、心配は役に立たない。単純にできていておめでたい私と彼女とは異なる。彼女の苦悩はおそらく私の到達できないところにあるのではないかと思う。
そのような考えに苦しんだので、私は彼女の携帯電話へ「俺には気を遣うな」とメッセージを送った。すぐに返信があり、そこには「一度も遣ったことない」と書かれていた。
それも彼女の気遣いなのかもしれない。あるいは私の取り越し苦労なのか。
いずれにせよ彼女の必要とするものは私の心配ではなく、一人になれる時間と場所という具体的で有形の資源である。今回の新型ウイルス感染症で顕在化した社会的な課題の一つとも言うことができ、私は今後そのようなサービスの開拓を模索してもよいのかもしれない。
最後に彼女は「愚痴ばっかりでごめん」と言い、私は「いや」と返答して通話は終了した。しかし私の頭の中には彼女の最後の言葉が残り、いくつかの考えに派生していった。
愚痴というものは聞く側が優位、言う側が劣位という優劣関係を形成することが多いのではないかと思う。愚痴を聞く側は「聞いてあげる」姿勢であり言う側は彼女のように「愚痴を言って申し訳ない」という意思を表明することになるという状況をよく見る。しかし私は明らかに彼女の話を聞くことを自らの意志によって選択しているのであり、聞きたくない話を聞かされたということではないから何らかの被害を受けたわけではない。愚痴を聞くと嫌な気持ちになるという人もいるが、私は人間には常に暗く否定的な側面が存在するものと思うので、明るい話だけの時もあってよいと思う一方で暗い話だけの時や両方がない混ぜになった話の時もあってよいと思う。
彼女が愚痴を言うことに罪悪感を持っているとしたらそれは私にとっては悲しいことでもあり、それは「私が自分の暗く否定的な側面を表現すると、あなたは私を遠ざけるだろう」と言われているような気がするからである。おそらく彼女と私の間には辛いことも分かち合えるほどの信頼関係は未だ形成されておらず、私はこれまでの自分の言動や態度をふり返り不信に繋がるものが無かったかを考えなければならない。
別の点では、彼女が愚痴を言う相手に事欠いているのではないかという懸念がある。私は他人の話を聞くにあたり硬直したような相槌を打つことで全てを終わらせる傾向が強く、決して聞き上手という類の人物ではない。私に何かを話すことは壁に向かって話すこととあまり変わりが無い。共感や受容のような要素が無いので、心理的な満足を得ようとするなら私には話さない方がよかろうと思う。現に彼女が私に話をするというのは、彼女が社会的な繋がりに乏しく他に相手がいなかった可能性も考えられる。それは危険な要素であり、疲弊し消耗してゆく状況にあるらしい彼女を閉塞へ行き着かせることが予想される。
彼女と私は同じ大学の同じ学部に在席していて、そして同じ時期に中退した。私の感じる彼女の行動の傾向として、自ら思考を重ねて到達した結論に従って行動するものの、その結果に関して多くの疑念を持つというものがある。本当にこれでよいのか、今の状況はあるべき姿なのか、ということを常に考えている人という印象である。彼女とは同じ倫理学を選考していて何度か議論をした。彼女はいつも私より優れていたが、決して満足することは無かった。私が経済的な困窮から退学届を提出した数日後、彼女は「自分を信頼できない」という理由で退学届を書いた。
私は彼女のことを心配することがあるが、心配は役に立たない。単純にできていておめでたい私と彼女とは異なる。彼女の苦悩はおそらく私の到達できないところにあるのではないかと思う。
そのような考えに苦しんだので、私は彼女の携帯電話へ「俺には気を遣うな」とメッセージを送った。すぐに返信があり、そこには「一度も遣ったことない」と書かれていた。
それも彼女の気遣いなのかもしれない。あるいは私の取り越し苦労なのか。
いずれにせよ彼女の必要とするものは私の心配ではなく、一人になれる時間と場所という具体的で有形の資源である。今回の新型ウイルス感染症で顕在化した社会的な課題の一つとも言うことができ、私は今後そのようなサービスの開拓を模索してもよいのかもしれない。
閲覧(1607)
カテゴリー | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |