tinc さんの日記
2020
5月
21
(木)
13:56
本文
私は他のSNSを使ったことが殆ど無い。TwitterやInstagramはアカウントだけ持っているものの何の活動もしておらず、LINEは知っている人との連絡手段としてのみ使用している。SNSとは何であるかということを感覚的にも理解しておらず、それゆえこのハピスロ世代での活動もいまだ手探りのまま続けている。
登録当初は今と比較してさえ理解が浅かったので何をしてよいのか悪いのかも分からず、知らない人だらけの場所に手ぶらで入っていって何が起こるか知らないが殺されはしないだろう、くらいの感覚であった。命の心配をするほど気負っていたというわけではなく、営業職をしていた頃に新規の顧客を開拓する時のことを思い出して罵詈雑言や脅迫を投げかけられる準備をしていたのだ。
実際には全然そんなことは起こらず、自由に活動させて頂いている。今では色々な人に対して一方的に「知らないけど知っている人」みたいな感覚を抱いており、自分の日常の色々な場面で「そういえばあの人はこう書いていたな」とか「あの人だったらこういう時どうするだろうか」と頭に浮かぶことも多い。
他の方のブログを読むのは楽しい。本当に様々のことが書かれていて、自分の中にも様々の感情や思考が生じる。勇気を出してコメントした時に返答を頂けたりするとたいへん嬉しい。ましてや自分の書いたブログにコメントを頂けた時には毎回毎回驚いている。
またコミュニティにも参加させて頂いてたいへんお世話になっており、書き込みをした後で「あんなこと言わなきゃ良かったかな」とか「あれも言っておいた方が良かったのかな」とか、よくある心配も生じてくる。心配よりも楽しいことの方がずっと多いし、後から心配してもそれは後から生じてくる心配であるからその時はそれしかできなかったと考えて済ませるのが妥当であるとも言える。それも楽しみである。
私の云う「知らないけど知っている人」、あの人もこの人も情報の継ぎ接ぎを材料に私が頭の中で勝手に作ったイメージである。それがその人そのものではないことを知りながら、あの人はこう思っているかもしれない、この人はこういう状況かもしれない、と想像してそれに対して何事かを思ったり言ったりするというのは、つまりSNSでないところで物理的に対面する人を相手にしているのと同じことである。
物理的に対面して話す相手からは顔の表情や声色などの情報も得られるとはいえ、それらからその人に関する確実な何かを「知る」ことは基本的には無いものだと私は思っている。何かを「感じ取る」ことや何らかの「印象を受ける」ことはある。ただそれらは私の内面で起こっていることであって、それでその人を分かったような気になるのは私にとっては危険なことである(この考えは認知や認識について私がある程度慎重でいたいと思うことと、私の築く他人との関係が希薄になりがちであることに主に由来するのかもしれない)。きっと人はみな私が思うよりも大きく深い。
SNSならではの特殊な関係というものも存在するのかもしれないが、今のところ私はそれを実感するに至っていない。それがこのハピスロ世代の特性に由来することなのか、それともどのSNSを使っても同じなのかは他を使ったことが無いこともあり見当がつかない。
何にせよSNSは現在の私にとっては楽園でも地獄でもない、その中間の人の世である。
登録当初は今と比較してさえ理解が浅かったので何をしてよいのか悪いのかも分からず、知らない人だらけの場所に手ぶらで入っていって何が起こるか知らないが殺されはしないだろう、くらいの感覚であった。命の心配をするほど気負っていたというわけではなく、営業職をしていた頃に新規の顧客を開拓する時のことを思い出して罵詈雑言や脅迫を投げかけられる準備をしていたのだ。
実際には全然そんなことは起こらず、自由に活動させて頂いている。今では色々な人に対して一方的に「知らないけど知っている人」みたいな感覚を抱いており、自分の日常の色々な場面で「そういえばあの人はこう書いていたな」とか「あの人だったらこういう時どうするだろうか」と頭に浮かぶことも多い。
他の方のブログを読むのは楽しい。本当に様々のことが書かれていて、自分の中にも様々の感情や思考が生じる。勇気を出してコメントした時に返答を頂けたりするとたいへん嬉しい。ましてや自分の書いたブログにコメントを頂けた時には毎回毎回驚いている。
またコミュニティにも参加させて頂いてたいへんお世話になっており、書き込みをした後で「あんなこと言わなきゃ良かったかな」とか「あれも言っておいた方が良かったのかな」とか、よくある心配も生じてくる。心配よりも楽しいことの方がずっと多いし、後から心配してもそれは後から生じてくる心配であるからその時はそれしかできなかったと考えて済ませるのが妥当であるとも言える。それも楽しみである。
私の云う「知らないけど知っている人」、あの人もこの人も情報の継ぎ接ぎを材料に私が頭の中で勝手に作ったイメージである。それがその人そのものではないことを知りながら、あの人はこう思っているかもしれない、この人はこういう状況かもしれない、と想像してそれに対して何事かを思ったり言ったりするというのは、つまりSNSでないところで物理的に対面する人を相手にしているのと同じことである。
物理的に対面して話す相手からは顔の表情や声色などの情報も得られるとはいえ、それらからその人に関する確実な何かを「知る」ことは基本的には無いものだと私は思っている。何かを「感じ取る」ことや何らかの「印象を受ける」ことはある。ただそれらは私の内面で起こっていることであって、それでその人を分かったような気になるのは私にとっては危険なことである(この考えは認知や認識について私がある程度慎重でいたいと思うことと、私の築く他人との関係が希薄になりがちであることに主に由来するのかもしれない)。きっと人はみな私が思うよりも大きく深い。
SNSならではの特殊な関係というものも存在するのかもしれないが、今のところ私はそれを実感するに至っていない。それがこのハピスロ世代の特性に由来することなのか、それともどのSNSを使っても同じなのかは他を使ったことが無いこともあり見当がつかない。
何にせよSNSは現在の私にとっては楽園でも地獄でもない、その中間の人の世である。
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