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私の母はカトリックの信徒である。10年足らず前、私が20代半ばの頃に、母は熱心に通っていた教会で昏倒し救急搬送後入院に至ったことがあった。私はその報せを受けて一時帰郷し、その出来事でお世話になった教会へ挨拶に行った。

神父や母を知る信徒の人々へお礼を述べ、ごく少額の寄進をした後、聖堂というのか、信徒が集まって牧師の話を聞いたり祈りを捧げたりする場所を覗かせて頂いた。柔らかい陽の射し込む、静かな良い場所であった。その聖堂には一人の若い女性がいた。私は暫く彼女の存在に気づかずに突っ立っていたので、長椅子から彼女が立ち上がってこちらを振り向いた時に驚いた。
「お祈りをしにいらしたのですか」と彼女は私に言った。私はそうではないと答えた。そして自分が教会に来た経緯と理由を話し、好奇心からその場所へ踏み入って彼女の邪魔をした非礼を詫びた。
「そうでしたか」と彼女は言うと、自分の首から下げていた木製のロザリオを外し、私に差し出した。そして「お持ち下さい。助けになるかと思います」と続けた。
私はそれを辞退してよいのか分からず、しばらく黙っていた。目の前の彼女は微動だにせずやはり黙っていた。私はネクタイを外し、当時欠かさず身につけていたピースマークの形のネックレスを外して彼女に差し出した。彼女はそれを受け取り、次に私は彼女の手からロザリオを受け取った。彼女は首にネックレスを掛け、私は上着の内ポケットにロザリオを収めた。
私は彼女にお礼を述べてお辞儀をし、そのまま教会を去った。タクシーとローカル線を乗り継いで駅に向かう間、そしてその先の東京のアパートへ帰るまでの間も、その頃の普段の私のささくれ立った泣きそうな心境は姿を消し、私は平穏な気持ちでいることができた。

その頃から私は離婚した両親にそれぞれ定期的な連絡をするようになり、それが今日まで続いている。そして人の顔を憶えるのをきわめて苦手としている私が、ロザリオの元の持ち主であった女性の炎のような瞳と氷のような声を未だに憶えている。
私は神やその他の形而上的なものには疎く、無宗教である。しかし今でも時折キャビネットから黒っぽい木でできたロザリオを取り出して眺めることがある。