tinc さんの日記
2020
5月
2
(土)
12:18
本文
人間には少しの狂気が必要なのではないか、と昔から思っている。真っ当だとか普通だとか正常だとかの範囲を出るものが無いと苦痛が大きすぎるのでは、と。私のように精神疾患を持つに至れということではなく、大切なものを維持するには少し周囲からの逸脱が必要であると思うということである。
たとえば昔には離婚歴が過去の罪のように扱われていて、今でもその価値観は弱まったとはいえ残っている。同性愛は犯罪や精神疾患として扱われていた。冷戦を含む戦争下では体制へ疑義を持つことは実質的に許されていなかった。昨今のウイルス感染症の流行に伴う種々の活動の制限において、市井の多くの人が他者を評価する際に見ているのは多分「ウイルスの感染を防ぐことに効果のある挙動をしているか」ではない。「お上の言いつけをみんなと同じように守っていて、みんなの感情を害さないか」である。
論理的に、科学的に、倫理的に、根拠が無く実体を伴わず誤っていることをみんなが信じている中で正しいことをすると、みんなから排斥を受け苦しめられることになる。説教をされたり非難されたり悪口を言われたり仲間外れにされたりするのは、悪いことをしたからではない。みんなと違うからだ。その孤独の中で正しいことをするにはある程度は狂気が要る。ナチス政権下でユダヤ人を救済する行為を取った人などは生命を危険に晒すことも多かったはずである。
歴史的に象徴的な事例でなくても、庶民の日常にもいくつも排斥が転がっている。われわれはごく普通に他人の顔面や服装や思想信条や経済状態にけちをつけて嘲笑している。そして時には相手を説得や説教や暴力によって矯正しようとする。これらに対抗しようと思うと孤独であり、実際にいくらか対抗するには孤独を相対化する狂気を必要とする。
自分がどこかおかしいのではないかと思うことは多々ある。しかし他人もきっとどこかおかしいはずだ。少しは狂わないとやっていられない。
たとえば昔には離婚歴が過去の罪のように扱われていて、今でもその価値観は弱まったとはいえ残っている。同性愛は犯罪や精神疾患として扱われていた。冷戦を含む戦争下では体制へ疑義を持つことは実質的に許されていなかった。昨今のウイルス感染症の流行に伴う種々の活動の制限において、市井の多くの人が他者を評価する際に見ているのは多分「ウイルスの感染を防ぐことに効果のある挙動をしているか」ではない。「お上の言いつけをみんなと同じように守っていて、みんなの感情を害さないか」である。
論理的に、科学的に、倫理的に、根拠が無く実体を伴わず誤っていることをみんなが信じている中で正しいことをすると、みんなから排斥を受け苦しめられることになる。説教をされたり非難されたり悪口を言われたり仲間外れにされたりするのは、悪いことをしたからではない。みんなと違うからだ。その孤独の中で正しいことをするにはある程度は狂気が要る。ナチス政権下でユダヤ人を救済する行為を取った人などは生命を危険に晒すことも多かったはずである。
歴史的に象徴的な事例でなくても、庶民の日常にもいくつも排斥が転がっている。われわれはごく普通に他人の顔面や服装や思想信条や経済状態にけちをつけて嘲笑している。そして時には相手を説得や説教や暴力によって矯正しようとする。これらに対抗しようと思うと孤独であり、実際にいくらか対抗するには孤独を相対化する狂気を必要とする。
自分がどこかおかしいのではないかと思うことは多々ある。しかし他人もきっとどこかおかしいはずだ。少しは狂わないとやっていられない。
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