tinc さんの日記
2020
4月
21
(火)
23:37
本文
私の好きなミュージシャンの一人にポール・サイモンがいる。彼は紛れもない天才だと私は思うが、ジョン・ライドンもまた天才の一人だと私が認識していると言うと怪訝に思われることが多い。だってあんなに少ない音とあんなに不快な声であれほど先鋭的で豊かな表現ができて、歌詞も普遍的な価値に迫っていて、しかもそれを激動のセックス・ピストルズの後にやっているのに、と言うとまた怪訝な顔をされるということを何度か繰り返している。
私による評価自体はさておき、音楽的な部分以外でもライドンはサイモンに比して毀誉褒貶の幅の広い人物であるということは言えるかと思う。彼らほどの著名人でなくとも毀誉褒貶は誰にでも常について回る。目つきやごみの捨て方から、ウイルス感染症の流行に伴う私権制限に対する態度や核武装への意思、はては神の実在性への意見まで、あらゆる何事かで人は誰かから評価を受け肯定されたり否定されたり無視されたりしながら生きている。
私はかつてこの毀誉褒貶にたいへん混乱した。混乱の原因は私の場合、自分でものを考えることを半ば放棄していたことにあった。自分は頭が悪すぎるので他の人は少なくとも自分より真っ当なことを言うだろうからそれに従っていれば大きな間違いはなかろうくらいに認識していた。
その私も年齢が重なるにつれていわゆる自我の目覚めみたいなものを経験したのか、自分の欲するところに従うことを始め、その後徐々に自分の欲さないところに試しに従ってみたり、他人の欲するところに従ってみたり、誰も欲さないところに従うことははたして可能だろうかと考えてみたりするようになった。そして現在は適切さとか普通さとかの流動的な概念について無い頭をひねることが好きである。相変わらず知識と知恵に乏しく定まった意見を持つことは滅多にないながらに、毀誉褒貶に一喜一憂することはずいぶん減って楽になった。また楽しくもなった。見解の相違の存在するところは刺激と魅惑に満ちていると思うようになったし、違う誰かが何かで一致することがあるのもまた不思議で素敵だと心惹かれるようになった。
ウイルスは人を殺すことがある。しかし昨今私の知る人たちの話を聞くに、人の敵はだいたい人ではないかとも感じる。話にならない人と話さざるを得ない時、寄り添ってほしいのに寄り添ってもらえない時、一人になりたいのになれない時、どうしていいか分からないのに何かをすることを強要される時、そうした人に端を発するさまざまの機会に、人の心は少しずつ血を流してゆくのかもしれないと思う。またもっと可視的な話で言えば政治や医療や市民という人の判断が誤ればそれによって死ぬこともある。毀誉褒貶と同じで、自分がなるべくしっかりしていても大きな力に押し流されることもある。
それでもなるべくしっかりしていたいな、と思う。
私の小汚いジーンズのポケットには、まだ一握の自由と生命が入っている。
私による評価自体はさておき、音楽的な部分以外でもライドンはサイモンに比して毀誉褒貶の幅の広い人物であるということは言えるかと思う。彼らほどの著名人でなくとも毀誉褒貶は誰にでも常について回る。目つきやごみの捨て方から、ウイルス感染症の流行に伴う私権制限に対する態度や核武装への意思、はては神の実在性への意見まで、あらゆる何事かで人は誰かから評価を受け肯定されたり否定されたり無視されたりしながら生きている。
私はかつてこの毀誉褒貶にたいへん混乱した。混乱の原因は私の場合、自分でものを考えることを半ば放棄していたことにあった。自分は頭が悪すぎるので他の人は少なくとも自分より真っ当なことを言うだろうからそれに従っていれば大きな間違いはなかろうくらいに認識していた。
その私も年齢が重なるにつれていわゆる自我の目覚めみたいなものを経験したのか、自分の欲するところに従うことを始め、その後徐々に自分の欲さないところに試しに従ってみたり、他人の欲するところに従ってみたり、誰も欲さないところに従うことははたして可能だろうかと考えてみたりするようになった。そして現在は適切さとか普通さとかの流動的な概念について無い頭をひねることが好きである。相変わらず知識と知恵に乏しく定まった意見を持つことは滅多にないながらに、毀誉褒貶に一喜一憂することはずいぶん減って楽になった。また楽しくもなった。見解の相違の存在するところは刺激と魅惑に満ちていると思うようになったし、違う誰かが何かで一致することがあるのもまた不思議で素敵だと心惹かれるようになった。
ウイルスは人を殺すことがある。しかし昨今私の知る人たちの話を聞くに、人の敵はだいたい人ではないかとも感じる。話にならない人と話さざるを得ない時、寄り添ってほしいのに寄り添ってもらえない時、一人になりたいのになれない時、どうしていいか分からないのに何かをすることを強要される時、そうした人に端を発するさまざまの機会に、人の心は少しずつ血を流してゆくのかもしれないと思う。またもっと可視的な話で言えば政治や医療や市民という人の判断が誤ればそれによって死ぬこともある。毀誉褒貶と同じで、自分がなるべくしっかりしていても大きな力に押し流されることもある。
それでもなるべくしっかりしていたいな、と思う。
私の小汚いジーンズのポケットには、まだ一握の自由と生命が入っている。
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