tinc さんの日記
2020
4月
2
(木)
09:10
本文
身近な人々からのお茶や食事の誘いが減り、回線を通じた会話の機会が増えた。彼らが多く口にするのは新型のウイルスの流行に関することである。ウイルスに対する彼らの捉え方も行動も様々である。日用品を買い溜めしている人もそうでない人もいる。差し迫る危険への恐怖を言葉にする人もいれば、日々の仕事がやり難くてかなわんと言う人もいる。私自身は疫病や経済や心理についての知識も知恵も持ち合わせないので何も言うことがなく、ただ何か大きなことが進行しているらしいと感じるに留まっている。
思い返すと、大地震に伴って発生した福島県の原子力発電所の事故の時には私はかなりの恐怖を覚えた。ふだん耳目を向けない新聞やテレビの報道を気にしていたし、知人たちへ向けて今までの付き合いに対する礼状を書いて送ったり、遺産(と呼ぶには少なかったが)の分配のことを主な内容とする遺言状を作成したりした。しかし当の事故から年月が経過すると、私は以前と同じ心情で生活をし始めた。まるでその事故が完全に処理され、死者や遺族への補償が終わり、十全な対策が取られた上で、事故の前とは根本的に異なる体制の下、二度と事故が起こることは無いとでも思っているかのように。そしてスリーマイルやチェルノブイリといった地名は、私の意識に上ることさえ無かった。私は何も変わらなかった。戦争、貧困、差別、虐待、環境破壊などが大昔から進行し続けていることを知っていても変わらないのだから、原発が一つ事故を起こそうがウイルスが一種流行しようが、変わらないのも不思議はない。私の余命があとどれだけあるか知らないが、のたうちまわって死ぬ時まで私は賢くならないのかもしれない。
愚かでありつつ善く生きるということがはたして可能なのか、と問うことが近頃多くなっている。馬鹿は迷惑というのも頷けなくもない。平時の生活と呼ぶべきものは最初から存在しないのではないか。自分が夢を見ていたかのような気がして、少しまごついている。
思い返すと、大地震に伴って発生した福島県の原子力発電所の事故の時には私はかなりの恐怖を覚えた。ふだん耳目を向けない新聞やテレビの報道を気にしていたし、知人たちへ向けて今までの付き合いに対する礼状を書いて送ったり、遺産(と呼ぶには少なかったが)の分配のことを主な内容とする遺言状を作成したりした。しかし当の事故から年月が経過すると、私は以前と同じ心情で生活をし始めた。まるでその事故が完全に処理され、死者や遺族への補償が終わり、十全な対策が取られた上で、事故の前とは根本的に異なる体制の下、二度と事故が起こることは無いとでも思っているかのように。そしてスリーマイルやチェルノブイリといった地名は、私の意識に上ることさえ無かった。私は何も変わらなかった。戦争、貧困、差別、虐待、環境破壊などが大昔から進行し続けていることを知っていても変わらないのだから、原発が一つ事故を起こそうがウイルスが一種流行しようが、変わらないのも不思議はない。私の余命があとどれだけあるか知らないが、のたうちまわって死ぬ時まで私は賢くならないのかもしれない。
愚かでありつつ善く生きるということがはたして可能なのか、と問うことが近頃多くなっている。馬鹿は迷惑というのも頷けなくもない。平時の生活と呼ぶべきものは最初から存在しないのではないか。自分が夢を見ていたかのような気がして、少しまごついている。
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