tinc さんの日記
2020
2月
13
(木)
07:20
本文
男子たるもの、と云われる理想的な男性像から最も遠いところにいる人々の一人が私である。とはいえ私が大学を中退していわゆる社会人の端くれになって以来見たところでは、男子とは好色で権力欲と名誉欲に塗れた拝金主義者たるべし、とする価値観がかなり幅を利かせているようなので、男子たるものでなくてよかったかもしれない。ちゃんとした男子たちの中にいると社会というものが封建主義に基づく搾取の機構に思えて、疲れて疲れて仕方がなかったのだが、いざちゃんとしようとするのを諦めてみると、犬や猫は可愛らしいわ、草花や天体は美しいわ、学問や芸術は楽しいわで、ある程度元気なままできるだけ長く生きたいと思うようになった。ちゃんとできなかったのは残念だが、ちゃんとできていたらちゃんとしていて、今ほど愉快ではなかっただろうと思う。無芸が身を助くこともある。そしてどんなに要求されても無理なものは無理である。
男子たるものを降りて改めて感じたのが、少なくとも日本の社会では性差別が未だ根強いということだった。男性は就労さえしていれば他のことについてあまりとやかく言われないのに、女性は就労していても家事も出産も育児もしていないと失格みたいに言われるのが普通である。しかもそれらの全てに先立ってある程度みんなから好かれる類の容姿が要求される。もし私が女性だったらとっくに誰かに殺されていただろう。
とはいえ、いちおう男子として生まれてしまったのでなんとなく男子っぽいことをすることもある。いま職探しの間の繋ぎにパートの仕事をしているのだが、力仕事や汚れ仕事や悪質な客の対応やその他の雑務の類は私がするようにしている。しかし本当にそれくらいで、私はこれをなんちゃって男子と勝手に名付けている。他にもニュアンス男子、フレイバー男子、名ばかり男子、男子系最下層民、等の名称も考えているがどれも同じ私という実体を指している。都合のつく時だけ男子っぽいことをするので非熟練パートタイム男子と言ってもよいかもしれない。ともあれ世間はあくまで私に男子たるものを要求するかもしれないが、やはり無理なものは無理だし、それに性別というのは主観的には降りることもできるので、せいぜいやりたいようにやらせてもらう所存である。
私が男性を降りたような意味で、女性は女性を降りることができるのだろうかとふと思うことがある。優位を占めている者が大きな権益と一緒に小さな負債を手放すのは簡単でも、劣位に立たされている側が小さな権益と共に大きな負債を手放そうとするのは困難だろう。私は女性の何たるかをまるで知らないし、女性に対して偏見を持っているのだと思う。しかし私の偏見とは別に男尊女卑は厳然とこの社会に存在するものである。私はまず自分の自由を念頭に日々のあれこれに向き合っているし、他人の自由を実現するほどの力を持っていない。そうは言っても他人の自由なくしては自分の自由もないはずだし、もし自分だけが自由であったら絶望的に孤独だろう。私がそれなりに不自由でそれなりに自由で、今の暮らしにそんなに窮屈さを感じないでいられるのは、根本的におめでたい奴であるということもあるものの、やはり抜けがけをしている部分があるような気がする。人間たるもの、今はそうするしかないとしても打開の道を模索し続けたいと思う。
男子たるものを降りて改めて感じたのが、少なくとも日本の社会では性差別が未だ根強いということだった。男性は就労さえしていれば他のことについてあまりとやかく言われないのに、女性は就労していても家事も出産も育児もしていないと失格みたいに言われるのが普通である。しかもそれらの全てに先立ってある程度みんなから好かれる類の容姿が要求される。もし私が女性だったらとっくに誰かに殺されていただろう。
とはいえ、いちおう男子として生まれてしまったのでなんとなく男子っぽいことをすることもある。いま職探しの間の繋ぎにパートの仕事をしているのだが、力仕事や汚れ仕事や悪質な客の対応やその他の雑務の類は私がするようにしている。しかし本当にそれくらいで、私はこれをなんちゃって男子と勝手に名付けている。他にもニュアンス男子、フレイバー男子、名ばかり男子、男子系最下層民、等の名称も考えているがどれも同じ私という実体を指している。都合のつく時だけ男子っぽいことをするので非熟練パートタイム男子と言ってもよいかもしれない。ともあれ世間はあくまで私に男子たるものを要求するかもしれないが、やはり無理なものは無理だし、それに性別というのは主観的には降りることもできるので、せいぜいやりたいようにやらせてもらう所存である。
私が男性を降りたような意味で、女性は女性を降りることができるのだろうかとふと思うことがある。優位を占めている者が大きな権益と一緒に小さな負債を手放すのは簡単でも、劣位に立たされている側が小さな権益と共に大きな負債を手放そうとするのは困難だろう。私は女性の何たるかをまるで知らないし、女性に対して偏見を持っているのだと思う。しかし私の偏見とは別に男尊女卑は厳然とこの社会に存在するものである。私はまず自分の自由を念頭に日々のあれこれに向き合っているし、他人の自由を実現するほどの力を持っていない。そうは言っても他人の自由なくしては自分の自由もないはずだし、もし自分だけが自由であったら絶望的に孤独だろう。私がそれなりに不自由でそれなりに自由で、今の暮らしにそんなに窮屈さを感じないでいられるのは、根本的におめでたい奴であるということもあるものの、やはり抜けがけをしている部分があるような気がする。人間たるもの、今はそうするしかないとしても打開の道を模索し続けたいと思う。
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