tinc さんの日記
2020
1月
23
(木)
20:38
本文
私はこの十数年間、数学を好んでいる。他のことと同じく下手の横好きなのであまり知らないし理解もしていない。昨日、私にこの数学への嗜好をもたらした知人の訃報が届いた。彼は83歳であった。
彼と知り合った時の私は聖書に興味を持っていたものの、それを読むほどに泥沼の混乱に陥る一方であった。彼は長くカトリックの信徒をしていたが、私のその混乱の泥沼へさえも土足で踏み入ることはせず、代わりに「聖書と一緒に数学書を読むとよい」と代数学の初歩的な教本を一冊手渡してくれた。この教本が麻薬か何かのように私の頭を掴んで放さなくなり、現在に至るまで私は何かの事象を受け止めるたびに、「これは数学的にはいったいどう表現されるのか」という疑問を持つようになった。私は彼と違って未だにキリスト教徒ではない。しかし数学への熱狂と宗教の信仰はどこか似たところがあるようにも感じている。数学に少し触れると、人間が考えうるものの在り方というのはとても多いのに、その中で人の関心を引いたり有用であったりするものはきわめて少ない、ということに出くわす機会がままある。事物の普遍的な姿というものは直感に反しているのがむしろ普通であるようだ。数学も宗教も、ひとの世界観の根底に影響を与えるという点で似ているかもしれない。
彼の訃報は私へは携帯電話へのメールで届いた。その時の私は近所の人懐こい猫に遊んでもらっていた。冬の昼下がりによくあるおぼろげで柔らかい陽の光の中で、この猫という生命の存在はどのように定義されれば正しいのか、私がこの猫に見出している美しさや尊さは、客観的にはいかなる像を描くものかと考えていた時だった。メールを読んで彼の死を知った私はまた、彼という存在はひとつの終わりを迎えたようであるが、時間の対称性という観点からは死はどんな意味を持つのかと思った。私は彼がいなくなったらとても心細いと感じると思っていたが、実際にはそうではなかった。彼が私に唯一教えた聖書の言葉が「野の百合を見よ」というものだったことを思い出した。曰く、栄華を極める人の姿でさえ、明日刈り取られ焼かれる運命にある野草の美しさに及ばないのであるから、明日のことを思い煩うのはやめて、永遠の生命に至る生き方を指向せよ、というような意図であるそうだ。彼は飾り気のない、もっと言えば素っ気ない印象の人であった。その素っ気なさに私は救われたところが多分にある。人の善意というものは過度な干渉の形を取ることが珍しくないのである。
私は彼のことで思い悩むことはしないでおこうと思っている。彼には信仰があり、学識があり、尊ぶべき素っ気なさがあったのだから、私の心配など蛇足もいいところであろう。今はまだ私は生きながらえている。信仰も学識もなく、それどころか職もないくらいだが、それもあまり思い悩むことではないような気がしている。ああいう男からいくばくかものを教わっておきながら己の保身に汲々としているようでは、あまりに格好悪い。公平ではない。私は私で少しでもよく生きるのだ。
彼と知り合った時の私は聖書に興味を持っていたものの、それを読むほどに泥沼の混乱に陥る一方であった。彼は長くカトリックの信徒をしていたが、私のその混乱の泥沼へさえも土足で踏み入ることはせず、代わりに「聖書と一緒に数学書を読むとよい」と代数学の初歩的な教本を一冊手渡してくれた。この教本が麻薬か何かのように私の頭を掴んで放さなくなり、現在に至るまで私は何かの事象を受け止めるたびに、「これは数学的にはいったいどう表現されるのか」という疑問を持つようになった。私は彼と違って未だにキリスト教徒ではない。しかし数学への熱狂と宗教の信仰はどこか似たところがあるようにも感じている。数学に少し触れると、人間が考えうるものの在り方というのはとても多いのに、その中で人の関心を引いたり有用であったりするものはきわめて少ない、ということに出くわす機会がままある。事物の普遍的な姿というものは直感に反しているのがむしろ普通であるようだ。数学も宗教も、ひとの世界観の根底に影響を与えるという点で似ているかもしれない。
彼の訃報は私へは携帯電話へのメールで届いた。その時の私は近所の人懐こい猫に遊んでもらっていた。冬の昼下がりによくあるおぼろげで柔らかい陽の光の中で、この猫という生命の存在はどのように定義されれば正しいのか、私がこの猫に見出している美しさや尊さは、客観的にはいかなる像を描くものかと考えていた時だった。メールを読んで彼の死を知った私はまた、彼という存在はひとつの終わりを迎えたようであるが、時間の対称性という観点からは死はどんな意味を持つのかと思った。私は彼がいなくなったらとても心細いと感じると思っていたが、実際にはそうではなかった。彼が私に唯一教えた聖書の言葉が「野の百合を見よ」というものだったことを思い出した。曰く、栄華を極める人の姿でさえ、明日刈り取られ焼かれる運命にある野草の美しさに及ばないのであるから、明日のことを思い煩うのはやめて、永遠の生命に至る生き方を指向せよ、というような意図であるそうだ。彼は飾り気のない、もっと言えば素っ気ない印象の人であった。その素っ気なさに私は救われたところが多分にある。人の善意というものは過度な干渉の形を取ることが珍しくないのである。
私は彼のことで思い悩むことはしないでおこうと思っている。彼には信仰があり、学識があり、尊ぶべき素っ気なさがあったのだから、私の心配など蛇足もいいところであろう。今はまだ私は生きながらえている。信仰も学識もなく、それどころか職もないくらいだが、それもあまり思い悩むことではないような気がしている。ああいう男からいくばくかものを教わっておきながら己の保身に汲々としているようでは、あまりに格好悪い。公平ではない。私は私で少しでもよく生きるのだ。
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