風まかせ さんの日記
2020
1月
18
(土)
14:24
本文
ニュースの見出しに「天命待つ 最後のセンター試験」とあり、大学入試センター試験がはじまったと報じていた。
この子たちは、はたして、大学に入って、学問をしたいのか、教養を身につけたいのか、あるいは「学歴」がほしいのか。
はじめはぼく自身、かがやくような心構えをもって「学問」しようと思ったが、まず、記憶するだけでは学問にならないことがわかった。
教授や書物から得た知識群を手がたく分析し、また独自の仮説をうちたて、あたらしい理論を組み立てなければならない。
いまこの国に必要なのは、そういう知識群であろう。
振り返ってみると、受験用の勉強は、学問ではない。
受験用の勉強というのは、様々なシステムを記憶し、ゲームのようなものを解くパータンをおぼえこんでしまうことで、ここでは「独創」は邪魔になる。
受験を否定しても、あいかわらずの「学歴社会」ではないかというと、Kさんはこう言う。
それは仮象の身分制といってよく、就職から縁談までにひびくというから滑稽といよりほかない。
仮象?わからない。
かんたんにいうと、実在するようにみえながら、それ自体は実在性を持たないイメージといったらよいだろうか。
まだわからない。
学歴社会は、議論の上では「学歴なんか問題でない」と口先でいわれつつも、実社会では大きな実効性をもっている。
「差別」という点では、人種隔離制のように、暴動ものではなかね?
そうなんだが、皮肉をこめていうと、受験のシステムというのは、社会をとりあえず秩序づける上でのすばらしい催眠作用をもっているから暴動はおきない。
よくわからないな。
仮に希望の学校にゆけなくても、不勉強であったとか、実力がない、不運であったと思うだろう。
そう、だれでもサッカーの試合の勝敗ように、自分を自分で納得させているんだよ。
ゲームなんだ。
そう、まことに世の中があげて受験というゲームをしているんだ。
学問とも創造、教養ともかかわりのないことだよ。
若者や学問を志そうという者は、まずは既成の学問、価値観を批判する能力を持ってくれなければ困る。
すでに足元に潮がさしはじめている、まったく新しい社会についての想像と認識をもってもらわなければならない。
現役を引退した者同士が、こんな話をするようでは困るな。
この子たちは、はたして、大学に入って、学問をしたいのか、教養を身につけたいのか、あるいは「学歴」がほしいのか。
はじめはぼく自身、かがやくような心構えをもって「学問」しようと思ったが、まず、記憶するだけでは学問にならないことがわかった。
教授や書物から得た知識群を手がたく分析し、また独自の仮説をうちたて、あたらしい理論を組み立てなければならない。
いまこの国に必要なのは、そういう知識群であろう。
振り返ってみると、受験用の勉強は、学問ではない。
受験用の勉強というのは、様々なシステムを記憶し、ゲームのようなものを解くパータンをおぼえこんでしまうことで、ここでは「独創」は邪魔になる。
受験を否定しても、あいかわらずの「学歴社会」ではないかというと、Kさんはこう言う。
それは仮象の身分制といってよく、就職から縁談までにひびくというから滑稽といよりほかない。
仮象?わからない。
かんたんにいうと、実在するようにみえながら、それ自体は実在性を持たないイメージといったらよいだろうか。
まだわからない。
学歴社会は、議論の上では「学歴なんか問題でない」と口先でいわれつつも、実社会では大きな実効性をもっている。
「差別」という点では、人種隔離制のように、暴動ものではなかね?
そうなんだが、皮肉をこめていうと、受験のシステムというのは、社会をとりあえず秩序づける上でのすばらしい催眠作用をもっているから暴動はおきない。
よくわからないな。
仮に希望の学校にゆけなくても、不勉強であったとか、実力がない、不運であったと思うだろう。
そう、だれでもサッカーの試合の勝敗ように、自分を自分で納得させているんだよ。
ゲームなんだ。
そう、まことに世の中があげて受験というゲームをしているんだ。
学問とも創造、教養ともかかわりのないことだよ。
若者や学問を志そうという者は、まずは既成の学問、価値観を批判する能力を持ってくれなければ困る。
すでに足元に潮がさしはじめている、まったく新しい社会についての想像と認識をもってもらわなければならない。
現役を引退した者同士が、こんな話をするようでは困るな。
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