風まかせ さんの日記
2019
12月
31
(火)
01:45
本文
読書仲間のAさん、この人は、ぼくと同じで、もっぱら古書店本好事家といっていい。
「面白い本をみつけましたよ」
井伏鱒二に「おんなごころ」という小品がある。
表題から想像されるところとはいささか趣が違い、井伏の舎弟ともいうべき太宰治をよく知られた最期へと引きずっていく、深情けの航跡をたどったものである。
凄惨な道行きを淡淡と描く筆致が、「黒い雨」の作者の面目をよく顕している。
文庫本で20頁ほどの短いものだが、その暗さは執拗で容赦がない。ところが、結び三頁を残すあたりでやおら作品に薄日がさしてくる。これまた井伏の真骨頂であろう。
なんでも、深情けの泥沼に足を掬われる以前、太宰がある女性と井伏邸で同席し、いたくあこがれていたというのである。
この女性は「美貌で才媛という評判であったが、からだが以前すこし弱かったのでいまだに独身」であり、出版社を辞めて童話の翻訳などをしていた。井伏の推測とは違って、女性の方は太宰の思いに気づいていなかったらしい。
太宰没後の夏、井伏はたまたま女性に出逢った。
「電車の中で」とだけあるが、昭和23年頃の電車は何線のどんな車両であったものか。
女性は、顔真卿の拓本をひらいて一心に見つめていた。話すうちに、女性の方から太宰の作品について話題にし始めた。そこで井伏が切り出した。
「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれていましたね」
すると女性は、びっくりした風で、見る見る顔を赤らめて、
「あら初耳だわ」
と独りごとのように言う。そして顔を赤らめたまま、言い足した。
「でも、あたしだったら、太宰さんを死なせなかったでしょうよ」
ひとくちに「おんなごころ」といっても、人によって現れかたが違っている、というのが井伏の結句である。
さて。
「この女性が誰か、おわかる?」
石井桃子さんである。
「クマのプーさん」「楽しい川べ」をはじめ、磨きあげられた不朽の訳業の数々を遺し、2008年春に満百一歳で他界された、あの石井桃子さんがこの女性なのである。
個人的には、石井さんについてこういう麗々しい言い方を、ほんとうはしたくない。ヒースの茂みを渡る風が行間から吹ききたって、えもいわれぬ懐かしさを呼びおこす。そのかぐわしさの中で娘たちは幼い日々を養われてきた。
「クマのプーさん」をディズニー・プロは作り変えて台無しにしたが、石井さんはたいせつに伝えてくれた。蔭にどれほどの苦心と才気がこめられていたか、後に私は知ることになる。
その石井さんと、あの太宰と、人生が一瞬だけ交錯した。その光芒をこうして井伏が記す。文学がここにある。
「面白い本をみつけましたよ」
井伏鱒二に「おんなごころ」という小品がある。
表題から想像されるところとはいささか趣が違い、井伏の舎弟ともいうべき太宰治をよく知られた最期へと引きずっていく、深情けの航跡をたどったものである。
凄惨な道行きを淡淡と描く筆致が、「黒い雨」の作者の面目をよく顕している。
文庫本で20頁ほどの短いものだが、その暗さは執拗で容赦がない。ところが、結び三頁を残すあたりでやおら作品に薄日がさしてくる。これまた井伏の真骨頂であろう。
なんでも、深情けの泥沼に足を掬われる以前、太宰がある女性と井伏邸で同席し、いたくあこがれていたというのである。
この女性は「美貌で才媛という評判であったが、からだが以前すこし弱かったのでいまだに独身」であり、出版社を辞めて童話の翻訳などをしていた。井伏の推測とは違って、女性の方は太宰の思いに気づいていなかったらしい。
太宰没後の夏、井伏はたまたま女性に出逢った。
「電車の中で」とだけあるが、昭和23年頃の電車は何線のどんな車両であったものか。
女性は、顔真卿の拓本をひらいて一心に見つめていた。話すうちに、女性の方から太宰の作品について話題にし始めた。そこで井伏が切り出した。
「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれていましたね」
すると女性は、びっくりした風で、見る見る顔を赤らめて、
「あら初耳だわ」
と独りごとのように言う。そして顔を赤らめたまま、言い足した。
「でも、あたしだったら、太宰さんを死なせなかったでしょうよ」
ひとくちに「おんなごころ」といっても、人によって現れかたが違っている、というのが井伏の結句である。
さて。
「この女性が誰か、おわかる?」
石井桃子さんである。
「クマのプーさん」「楽しい川べ」をはじめ、磨きあげられた不朽の訳業の数々を遺し、2008年春に満百一歳で他界された、あの石井桃子さんがこの女性なのである。
個人的には、石井さんについてこういう麗々しい言い方を、ほんとうはしたくない。ヒースの茂みを渡る風が行間から吹ききたって、えもいわれぬ懐かしさを呼びおこす。そのかぐわしさの中で娘たちは幼い日々を養われてきた。
「クマのプーさん」をディズニー・プロは作り変えて台無しにしたが、石井さんはたいせつに伝えてくれた。蔭にどれほどの苦心と才気がこめられていたか、後に私は知ることになる。
その石井さんと、あの太宰と、人生が一瞬だけ交錯した。その光芒をこうして井伏が記す。文学がここにある。
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