風まかせ さんの日記
2019
12月
29
(日)
22:12
本文
このところ書籍やテレビなどで「ホモサピエンス」が話題になっている。
詳しい内容は専門家におまかせするが、
大意、ホモサピエンスだけが「想像力」をもっていたので、生物の頂点に立った、と理解した。
フィクションは手ごわい。
芥川龍之介の作品に『葱』という短編がある。
主人公のお君さんは、カフェのウエイトレスで、ハンサムでハイカラな若いお客の田中君に恋をして、やっと念願のデートが叶う。
お君さんは紫紺の御召のコートにクリーム色の肩掛けをして、そわそわと待合わせの場所へ。田中君は、鍔広(つばひろ)の帽子を目深くかぶって洋銀の握りの細い杖をもち、かすかに香水の匂いまでさせている。見るものすべてが美しく夢心地に思えるデートの最中、ちいさな一軒の八百屋さんの前を通りかかった。
お君さんがふと目をやると、葱の山の中に立っている「一束四銭」の札が見える。物価高のこのご時世、一束四銭という葱はめったにない。お君さんは田中君を残し、思わず二束の葱を買ってしまう。
お君さんが戻ってくると、「実生活の如く辛辣な、眼に滲む如く葱の匂」が田中君の鼻を強く打つ。
これからのデートの予定を練っていた田中君は、目論見がはずれて世にも情ない目つき、対照的にお君さんは、二束八銭の葱を下げて、涼しい目の中にうれしそうな微笑を踊らせる。お君さんの、葱のようにまっすぐな気持ちがさわやかである。
とはじめは思ったが、はたしてそうであろうか。
芥川龍之介は若いころ愛読していたが、年を重ねてからよむと、口幅ったいことを言うようだが、芥川龍之介さんは女性をご存じないように思う。
というぼくが、女性を知っているなどと、身の程知らずなこと言うわけではなく、こんなことを思いだした。
これも若いころ読んだ志賀直哉の『暗夜行路』がそれで、その一節には女のことを形容して、どこか遠い北の海でとれたカニを思わせるようなところがあった、とあった。
「男性はロマンチストで、女性はリアリスト」というのはよく聞くけれど、お君さんは、そのレベルではなく、いまふうにいうと、たんに「空気が読めない」だけではないだろうか。
それにくらべ、志賀直哉さんがいう「カニのような女とはどんな女なのだろうか」と想像がふくらむ。
といってこれを読んだのはたしか中学生のころで、カニは食べたことがないし、オンナとなると、口うるさい母親と姉が女とわかっているくらいで、無理に結びつけようとしても「サルカニ合戦」で騙されるおお人好しのカニをイメージしてしまって、手がかりがつかめない。
カニが食べられるオトナになっても、カニは好物というわけではなく、そもそも食べることが面倒で、おちおちお酒も飲んでいられない。
まさか文豪が、この「面倒くささ」を比喩したわけではないことはわかり、そのカニのゆたかな滋味にあることは想像できる。
女と食べものが書けたら小説は成功だという話は読んだことがあるが、そうだとしたら、よく練習しておかなくてはならないであろう。
ところが、得手勝手に、若いころの、ささやかな恋愛体験を思い出して想像してみる。
たとえばの話だけど、いま私がいなくなったら、どうする?
………
いやぁねー、たとえばと言ったでしょう?
信じられるのか?
信じられるではなく、信じてほしいの
ルノアールのような女ばかりではないのよ
どういう意味?
男性は、あのふくよかな曲線とあたたかい色合いが好きなのでしょう?
いやピカソがいい
青の時代の?キュビズムの?
女性はフィクションと現実は完全に別のものだと切り分けているようだ。
芥川龍之介は、女性をそう理解したと思われる。
志賀直哉は、「不思議な魅力」をもっていると考えているようである。
文豪のご理解は尊重するが、ここは「ホモサピエンス」として、自由に想像をたのしみたいものです。
詳しい内容は専門家におまかせするが、
大意、ホモサピエンスだけが「想像力」をもっていたので、生物の頂点に立った、と理解した。
フィクションは手ごわい。
芥川龍之介の作品に『葱』という短編がある。
主人公のお君さんは、カフェのウエイトレスで、ハンサムでハイカラな若いお客の田中君に恋をして、やっと念願のデートが叶う。
お君さんは紫紺の御召のコートにクリーム色の肩掛けをして、そわそわと待合わせの場所へ。田中君は、鍔広(つばひろ)の帽子を目深くかぶって洋銀の握りの細い杖をもち、かすかに香水の匂いまでさせている。見るものすべてが美しく夢心地に思えるデートの最中、ちいさな一軒の八百屋さんの前を通りかかった。
お君さんがふと目をやると、葱の山の中に立っている「一束四銭」の札が見える。物価高のこのご時世、一束四銭という葱はめったにない。お君さんは田中君を残し、思わず二束の葱を買ってしまう。
お君さんが戻ってくると、「実生活の如く辛辣な、眼に滲む如く葱の匂」が田中君の鼻を強く打つ。
これからのデートの予定を練っていた田中君は、目論見がはずれて世にも情ない目つき、対照的にお君さんは、二束八銭の葱を下げて、涼しい目の中にうれしそうな微笑を踊らせる。お君さんの、葱のようにまっすぐな気持ちがさわやかである。
とはじめは思ったが、はたしてそうであろうか。
芥川龍之介は若いころ愛読していたが、年を重ねてからよむと、口幅ったいことを言うようだが、芥川龍之介さんは女性をご存じないように思う。
というぼくが、女性を知っているなどと、身の程知らずなこと言うわけではなく、こんなことを思いだした。
これも若いころ読んだ志賀直哉の『暗夜行路』がそれで、その一節には女のことを形容して、どこか遠い北の海でとれたカニを思わせるようなところがあった、とあった。
「男性はロマンチストで、女性はリアリスト」というのはよく聞くけれど、お君さんは、そのレベルではなく、いまふうにいうと、たんに「空気が読めない」だけではないだろうか。
それにくらべ、志賀直哉さんがいう「カニのような女とはどんな女なのだろうか」と想像がふくらむ。
といってこれを読んだのはたしか中学生のころで、カニは食べたことがないし、オンナとなると、口うるさい母親と姉が女とわかっているくらいで、無理に結びつけようとしても「サルカニ合戦」で騙されるおお人好しのカニをイメージしてしまって、手がかりがつかめない。
カニが食べられるオトナになっても、カニは好物というわけではなく、そもそも食べることが面倒で、おちおちお酒も飲んでいられない。
まさか文豪が、この「面倒くささ」を比喩したわけではないことはわかり、そのカニのゆたかな滋味にあることは想像できる。
女と食べものが書けたら小説は成功だという話は読んだことがあるが、そうだとしたら、よく練習しておかなくてはならないであろう。
ところが、得手勝手に、若いころの、ささやかな恋愛体験を思い出して想像してみる。
たとえばの話だけど、いま私がいなくなったら、どうする?
………
いやぁねー、たとえばと言ったでしょう?
信じられるのか?
信じられるではなく、信じてほしいの
ルノアールのような女ばかりではないのよ
どういう意味?
男性は、あのふくよかな曲線とあたたかい色合いが好きなのでしょう?
いやピカソがいい
青の時代の?キュビズムの?
女性はフィクションと現実は完全に別のものだと切り分けているようだ。
芥川龍之介は、女性をそう理解したと思われる。
志賀直哉は、「不思議な魅力」をもっていると考えているようである。
文豪のご理解は尊重するが、ここは「ホモサピエンス」として、自由に想像をたのしみたいものです。
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