Bishop さんの日記
2019
10月
29
(火)
22:15
本文
次に目指すのは、広島市内の広島城から平和記念公園あたりを散策。
山陽線宮島口駅から広島駅へ行き、荷物を駅のコインロッカーかホテルに預けてからバスで行く算段をしていました。
しかし、宮島で予定より40分程時間超過してしまったので、施設の見学時間もあることから、最短で広島城へ行ける方法は無いか?
スマホのGoogle Mapで検索すると、広島駅の手前 新白島(しんはくしま)で降り、アストラムラインというのに乗り換え、城北駅で下車して徒歩で広島城へ行くルートが早いとういう検索結果がでました。
この経路の情報収集方法、いやその行為そのものが大きな間違いであったと気づくのはもう少しあと・・・。
JRに乗車すると、ほぼ満員でありました。
それでも、なんとか一つだけ座席が空いていたので、よっこらしょと腰を下ろし、やおら隣を見ると、4人の外人さんが座っています。
ラグビーワールドカップを見に来たついでに観光しているのか?
4人とも非常に大柄で、服装はどこかのスポーツクラブのユニホームのようなものを着ています。
腕は丸太のように太く、胸板もけっこう厚く、4人とも窮屈そうに座っていました。
ヨーロッパか?アメリカか?オセアニアか?
“ はるばる日本へ、ようおこし! あわおこし! ”
居眠りをしかけたとき、「新白島」のアナウンス。
開札を出てアストラムラインの行先を探るのですが・・・?。
とりあえず出口の方向へ行きエレベーターで下まで降りると、右へ。
そのあと、右へ、エレベーターで上へ、左へ、エレベーターで下へ、エスカレーターでさらに下へ・・・。
キャリーケースをゴロゴロ・・・。
アストラムラインというのは地下鉄でしたわ。(笑)
電車の間隔は10分間隔ですが、この時間になると疲れも出てきたせいか、待ち時間が長く感じました。
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城北駅を降りたのですが、荷物をどうしよう?と考えながらお城の方向へゴロゴロ。
5分ほど歩くと お堀に出ます。
幅の広いお堀です。
その前方には、おおお・・・・・!天守閣があります。
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お堀沿いに東へ進み旧陸軍幼年学校跡地を超えて南方向へ進むと右側に中国放送社屋。
そこを超えて右に折れると、お堀を渡り裏御門に到着。
やっぱり、荷物が邪魔になる。しかも予定時刻よりかなり遅れている。
“ う~ん? ”と考えながら左の方を見ると約100m先にタクシーが1台止まっている。
その方向へ向かいながら、“ タクシーでホテルまで行き荷物を預けて、折り返しここまできてもらおうか? ”と考えました。
“ やっぱり素直に広島駅まで行き予定通りの行動をすればロスもなく、むしろ早かった ”と後悔しました。
広島のタクシーの運転手さんはお喋りですね。
行先と折り返しの段取りを告げると、早速、「どちらからお見えですか?」と決まり文句の質問に始まり、あれやこれやと・・・。
広島弁で案内してくれる運転手さんは楽しい人でした。
当然、広島東洋カープの話になり、「やっぱり、丸が巨人へ行ったのが大きいなあ」とお互いの意見は一致しました。
広島城は、毛利輝元が、太閤さんの大阪城や聚楽第を見て、城づくりを決意し天正19年( 1591年 )に建てたものです。周りの石垣などはその後も工事が続いたようです。
関ヶ原の戦い以降は、福島正則その後は浅野氏が入場しています。
明治以降は軍事施設となり、日清戦争を皮切りに大本営の統帥機関となります。
昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾投下により天守閣は崩壊されてしました。
しかし、広島市民の再建への声が高まり、昭和33年に現在の天守閣が再建されました。
感想としては、基本的に鉄筋コンクリート造りであり、城内は資料館となっておりますから、あまり感動はしなかったです。
天守閣の一番上からの景色も、すぐそこに大きなマンションが建ち並んでいるのが残念でした。
まあ、大都会広島の市街地にある平城だからしょうがないのですがね。
しかし、外観は、五層五階で背が高く、他のお城ではあまり見られない板張りの姿は、重厚で素晴らしいと感じました。
あっ! そうそう別名は「鯉城(りじょう)」ですが、広島東洋カープのカープ(鯉)はここからきてるそうですよ。
どうして鯉城? それはわかりませんわ。人の名前か地名か???
広島平和記念資料館(原爆資料館)へ到着できたのが午後3時半を回ったころでしょうか?
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この資料館は、昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、一発の原子力爆弾がこの広島に落とされ、多くの命を奪い去り、生き残った人たちも想像を絶する人生を送らされた人類史上、最も悲惨な出来事を、当時の資料や遺品を展示し、核兵器の恐ろしさを内外に伝え、二度とこのようなことが繰り返されないよう訴えるために作られたものであることは、すでにみなさんご承知のこと。
すでにここに来られた方も多いでしょうが、もしまだ行ったことが無いかたは、機会があれば是非訪れてみてほしい場所です。
平成31年4月25日(木)本館はリニューアルオープンし、展示内容も変わったらしいですよ。
ある程度の、予備知識を持って行った私ですが、展示室内に一歩踏み込み、壁に展示されている写真を見た時には、思わず胸を詰まらせ、涙が込み上げて来ました。
非常に見学者が多く、ここでもラグビーの影響もあるかもしれませんが、そのほとんどが外国人客でありました。
“ この人たちは、この展示物を見てどう感じているだろう? ”
見学の列は、なかなか前へ進みません。みなさん、展示物と説明文をしっかり読んでおられました。
日本人であろう人もいらっしゃいましたが、年配者がほとんどでしたね。
若者はチラホラ、男女のカップルで来られていましたかな?
表に出たころはもう5時近くになっていました。
北の方向へ行くと、慰霊碑があり数人の外国人客が、記念撮影をしています。
その人たちが去るのを待って、慰霊碑の前へ進み出ました。慰霊碑の向こうには原爆ドームが見えます。
合掌し、黙とうを済ませ、その場を離れしばらくして振り返ると、また違う外国人客が記念写真をバチバチ。
その光景に、少しとまどいました。
文化が違うのか、私がおかしいのか? 何か違うようで・・。
この公園は、東に元安川、西に本川が両サイドに流れる中州になっています。
原爆の子の像の前を通り、右側の元安川沿いをさらに北へ進み中州のほぼ先端の川向うに、原爆ドームがあります。
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爆心地であったこの建物は原爆投下前「広島県産業奨励館」だったそうです。
広島市街地の中心部のこの場所に原爆が落とされたのです。
多くの一般市民がなぜ犠牲にならなければならなかったのか?
戦争を終わらせるために、ここまでしなくてはならないのか?
こんなものを見つけました。
「米国が広島に原爆を落とした理由」 https://www.cnn.co.jp/world/35141021.html
その中に、
1963年、ドワイト・アイゼンハワー元大統領は回顧録の中で原爆の使用を批判し、日本に対して降伏を強いる必要はなかったと指摘した。
広島市議会は1958年、大統領の座から退いていたトルーマン氏が原爆の使用について良心の呵責(かしゃく)を感じず、万一の場合は引き続き使用を支持すると表明したことに対する抗議声明決議を採択した。
とあります。
原爆ドームを後にするころには、日も傾き始めました。
黄昏れ時のお城も見たいなあと思い、北へ向けて歩きました。
今度は城郭の南側、二の丸跡から入り、広島護国神社の前を通って天守まで。
ライトアップされて、静かにそびえ立つ天守もいいもんです。
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あ~、お腹空いた!
広島と言えばお好み焼き。
「お好み村」というところで食べた、カキオコ(また牡蠣かよ!)とビールは美味しかった。
山陽線宮島口駅から広島駅へ行き、荷物を駅のコインロッカーかホテルに預けてからバスで行く算段をしていました。
しかし、宮島で予定より40分程時間超過してしまったので、施設の見学時間もあることから、最短で広島城へ行ける方法は無いか?
スマホのGoogle Mapで検索すると、広島駅の手前 新白島(しんはくしま)で降り、アストラムラインというのに乗り換え、城北駅で下車して徒歩で広島城へ行くルートが早いとういう検索結果がでました。
この経路の情報収集方法、いやその行為そのものが大きな間違いであったと気づくのはもう少しあと・・・。
JRに乗車すると、ほぼ満員でありました。
それでも、なんとか一つだけ座席が空いていたので、よっこらしょと腰を下ろし、やおら隣を見ると、4人の外人さんが座っています。
ラグビーワールドカップを見に来たついでに観光しているのか?
4人とも非常に大柄で、服装はどこかのスポーツクラブのユニホームのようなものを着ています。
腕は丸太のように太く、胸板もけっこう厚く、4人とも窮屈そうに座っていました。
ヨーロッパか?アメリカか?オセアニアか?
“ はるばる日本へ、ようおこし! あわおこし! ”
居眠りをしかけたとき、「新白島」のアナウンス。
開札を出てアストラムラインの行先を探るのですが・・・?。
とりあえず出口の方向へ行きエレベーターで下まで降りると、右へ。
そのあと、右へ、エレベーターで上へ、左へ、エレベーターで下へ、エスカレーターでさらに下へ・・・。
キャリーケースをゴロゴロ・・・。
アストラムラインというのは地下鉄でしたわ。(笑)
電車の間隔は10分間隔ですが、この時間になると疲れも出てきたせいか、待ち時間が長く感じました。
城北駅を降りたのですが、荷物をどうしよう?と考えながらお城の方向へゴロゴロ。
5分ほど歩くと お堀に出ます。
幅の広いお堀です。
その前方には、おおお・・・・・!天守閣があります。
お堀沿いに東へ進み旧陸軍幼年学校跡地を超えて南方向へ進むと右側に中国放送社屋。
そこを超えて右に折れると、お堀を渡り裏御門に到着。
やっぱり、荷物が邪魔になる。しかも予定時刻よりかなり遅れている。
“ う~ん? ”と考えながら左の方を見ると約100m先にタクシーが1台止まっている。
その方向へ向かいながら、“ タクシーでホテルまで行き荷物を預けて、折り返しここまできてもらおうか? ”と考えました。
“ やっぱり素直に広島駅まで行き予定通りの行動をすればロスもなく、むしろ早かった ”と後悔しました。
広島のタクシーの運転手さんはお喋りですね。
行先と折り返しの段取りを告げると、早速、「どちらからお見えですか?」と決まり文句の質問に始まり、あれやこれやと・・・。
広島弁で案内してくれる運転手さんは楽しい人でした。
当然、広島東洋カープの話になり、「やっぱり、丸が巨人へ行ったのが大きいなあ」とお互いの意見は一致しました。
広島城は、毛利輝元が、太閤さんの大阪城や聚楽第を見て、城づくりを決意し天正19年( 1591年 )に建てたものです。周りの石垣などはその後も工事が続いたようです。
関ヶ原の戦い以降は、福島正則その後は浅野氏が入場しています。
明治以降は軍事施設となり、日清戦争を皮切りに大本営の統帥機関となります。
昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾投下により天守閣は崩壊されてしました。
しかし、広島市民の再建への声が高まり、昭和33年に現在の天守閣が再建されました。
感想としては、基本的に鉄筋コンクリート造りであり、城内は資料館となっておりますから、あまり感動はしなかったです。
天守閣の一番上からの景色も、すぐそこに大きなマンションが建ち並んでいるのが残念でした。
まあ、大都会広島の市街地にある平城だからしょうがないのですがね。
しかし、外観は、五層五階で背が高く、他のお城ではあまり見られない板張りの姿は、重厚で素晴らしいと感じました。
あっ! そうそう別名は「鯉城(りじょう)」ですが、広島東洋カープのカープ(鯉)はここからきてるそうですよ。
どうして鯉城? それはわかりませんわ。人の名前か地名か???
広島平和記念資料館(原爆資料館)へ到着できたのが午後3時半を回ったころでしょうか?
この資料館は、昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、一発の原子力爆弾がこの広島に落とされ、多くの命を奪い去り、生き残った人たちも想像を絶する人生を送らされた人類史上、最も悲惨な出来事を、当時の資料や遺品を展示し、核兵器の恐ろしさを内外に伝え、二度とこのようなことが繰り返されないよう訴えるために作られたものであることは、すでにみなさんご承知のこと。
すでにここに来られた方も多いでしょうが、もしまだ行ったことが無いかたは、機会があれば是非訪れてみてほしい場所です。
平成31年4月25日(木)本館はリニューアルオープンし、展示内容も変わったらしいですよ。
ある程度の、予備知識を持って行った私ですが、展示室内に一歩踏み込み、壁に展示されている写真を見た時には、思わず胸を詰まらせ、涙が込み上げて来ました。
非常に見学者が多く、ここでもラグビーの影響もあるかもしれませんが、そのほとんどが外国人客でありました。
“ この人たちは、この展示物を見てどう感じているだろう? ”
見学の列は、なかなか前へ進みません。みなさん、展示物と説明文をしっかり読んでおられました。
日本人であろう人もいらっしゃいましたが、年配者がほとんどでしたね。
若者はチラホラ、男女のカップルで来られていましたかな?
表に出たころはもう5時近くになっていました。
北の方向へ行くと、慰霊碑があり数人の外国人客が、記念撮影をしています。
その人たちが去るのを待って、慰霊碑の前へ進み出ました。慰霊碑の向こうには原爆ドームが見えます。
合掌し、黙とうを済ませ、その場を離れしばらくして振り返ると、また違う外国人客が記念写真をバチバチ。
その光景に、少しとまどいました。
文化が違うのか、私がおかしいのか? 何か違うようで・・。
この公園は、東に元安川、西に本川が両サイドに流れる中州になっています。
原爆の子の像の前を通り、右側の元安川沿いをさらに北へ進み中州のほぼ先端の川向うに、原爆ドームがあります。
爆心地であったこの建物は原爆投下前「広島県産業奨励館」だったそうです。
広島市街地の中心部のこの場所に原爆が落とされたのです。
多くの一般市民がなぜ犠牲にならなければならなかったのか?
戦争を終わらせるために、ここまでしなくてはならないのか?
こんなものを見つけました。
「米国が広島に原爆を落とした理由」 https://www.cnn.co.jp/world/35141021.html
その中に、
1963年、ドワイト・アイゼンハワー元大統領は回顧録の中で原爆の使用を批判し、日本に対して降伏を強いる必要はなかったと指摘した。
広島市議会は1958年、大統領の座から退いていたトルーマン氏が原爆の使用について良心の呵責(かしゃく)を感じず、万一の場合は引き続き使用を支持すると表明したことに対する抗議声明決議を採択した。
とあります。
原爆ドームを後にするころには、日も傾き始めました。
黄昏れ時のお城も見たいなあと思い、北へ向けて歩きました。
今度は城郭の南側、二の丸跡から入り、広島護国神社の前を通って天守まで。
ライトアップされて、静かにそびえ立つ天守もいいもんです。
あ~、お腹空いた!
広島と言えばお好み焼き。
「お好み村」というところで食べた、カキオコ(また牡蠣かよ!)とビールは美味しかった。
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