松任谷 彩 さんの日記
2019
9月
13
(金)
12:55
本文
十津川大水害の被災民がトック原野に到着し、入植が始まったの明治23年でした。新十津川村と命名し、奈良県の十津川村を「母村」と呼んで同じ村章を用いるなど交流を広めました。
小樽港から石狩川を船で渡って120km先の入植地へ向かう。陸路のほとんどが徒歩。アイヌ原住民が先導役。樺戸刑務所の受刑者が、女子供と年寄りを背負って導く。他に開墾用の農機具と生活器具も荷車ナシで運搬を協力。更に原生林を測量し、区画割りが始まる。
大昔から十津川村の住民は、尊王の姿勢を貫き、他地域の開拓住民とは異なる特別待遇を受ける事になった。
もともと徳富川流域は、サケやサクラマスがふんだんに遡上するアイヌ原住民の漁場であった。さらに豊かな水源と平坦地は米作に適し、後に石狩平野の米所に昇格された。
画像①十津川村の移住先経路と回数
画像②樺戸刑務所の受刑者がヒト助け
画像③現在の新十津川町(空撮)
画像④四代目になった年寄りが、十津川村で汗を流す
小樽港から石狩川を船で渡って120km先の入植地へ向かう。陸路のほとんどが徒歩。アイヌ原住民が先導役。樺戸刑務所の受刑者が、女子供と年寄りを背負って導く。他に開墾用の農機具と生活器具も荷車ナシで運搬を協力。更に原生林を測量し、区画割りが始まる。
大昔から十津川村の住民は、尊王の姿勢を貫き、他地域の開拓住民とは異なる特別待遇を受ける事になった。
もともと徳富川流域は、サケやサクラマスがふんだんに遡上するアイヌ原住民の漁場であった。さらに豊かな水源と平坦地は米作に適し、後に石狩平野の米所に昇格された。
画像①十津川村の移住先経路と回数
画像②樺戸刑務所の受刑者がヒト助け
画像③現在の新十津川町(空撮)
画像④四代目になった年寄りが、十津川村で汗を流す
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