tinc さんの日記
2019
9月
4
(水)
13:33
本文
高校時代、私の偏差値は40を下回っていた。ある変わり者の先輩が不屈の忍耐を持って指導して下さった結果、私は大学に進学した。その大学を経済的な問題で中退した直後に入った企業ではある先輩が公私の隔てなく面倒を見て下さった。職を転々とする間も上司や同僚や取引先に悪人と呼ぶべき人はおらず、今のパート先でも先日このブログに書かせて頂いた先輩のように尊敬すべき人に囲まれている。
私が無能でありながらこれまで生存を続けられ、しかもそれなりに楽しい思いをすることができているのは、ひとえに人々の支えに恵まれていることによる。これほど優れて善い人々に巡り合うのは私の人徳から来るものでは決してない。では何かというと、運だと考えている。絶望と苦痛の中で死んでゆく者のほうが多い中で、私が一時的にでも幸福を享受しているという現象は、度重なる偶然と解釈するのが最も受け入れやすい。
問題は、これを当たり前のことや自分の手柄によることなどというつまらない勘違いをしないために、いかにして自律してゆくかということである。この世は私のために建造されたテーマパークではないし、他人はそこで働く従業員ではない。にもかかわらずその類の世界観に浸り、他人に依存し、物事が自分の思い通りでないことをまるで不当な暴力のように受け取ってしまいがちである。これは知的にも倫理的にも、たぶんその他色々な意味でも恐るべき堕落であり、自己を無力で邪悪な存在に貶めてしまう。何度も経験しているのについ忘れてしまう。一旦そこに落ちれば這い上がるのは大変だ。
私の思考は穴だらけである。いつ足を取られるか分かったものではない。人に感謝していたつもりが依存に転じているということは珍しくない。嫌なことではあるが、他の多くの事物と同じく、「これさえやっておけば大丈夫」というような転ばぬ先の杖が存在しないとも感じている。失敗への恐怖で動けなくなるというのも面白くないだろう。自分なりに考えながら何とかやっていくしかないのだ。
この世に転ばぬ先の杖も銀の弾丸も魔法の杖も万能薬も無い。誰もが人であり英雄はいない。私は英雄の不在を嘆くのではなく、やがて死すべき一個の人間として自分の成しうる限りを模索するべきだろう。それは難しいことなので他人に任せておきたいという気持ちもありつつ、それを放棄する生き方は退屈で不快なだけなので耐えられないとも思っている。
私が無能でありながらこれまで生存を続けられ、しかもそれなりに楽しい思いをすることができているのは、ひとえに人々の支えに恵まれていることによる。これほど優れて善い人々に巡り合うのは私の人徳から来るものでは決してない。では何かというと、運だと考えている。絶望と苦痛の中で死んでゆく者のほうが多い中で、私が一時的にでも幸福を享受しているという現象は、度重なる偶然と解釈するのが最も受け入れやすい。
問題は、これを当たり前のことや自分の手柄によることなどというつまらない勘違いをしないために、いかにして自律してゆくかということである。この世は私のために建造されたテーマパークではないし、他人はそこで働く従業員ではない。にもかかわらずその類の世界観に浸り、他人に依存し、物事が自分の思い通りでないことをまるで不当な暴力のように受け取ってしまいがちである。これは知的にも倫理的にも、たぶんその他色々な意味でも恐るべき堕落であり、自己を無力で邪悪な存在に貶めてしまう。何度も経験しているのについ忘れてしまう。一旦そこに落ちれば這い上がるのは大変だ。
私の思考は穴だらけである。いつ足を取られるか分かったものではない。人に感謝していたつもりが依存に転じているということは珍しくない。嫌なことではあるが、他の多くの事物と同じく、「これさえやっておけば大丈夫」というような転ばぬ先の杖が存在しないとも感じている。失敗への恐怖で動けなくなるというのも面白くないだろう。自分なりに考えながら何とかやっていくしかないのだ。
この世に転ばぬ先の杖も銀の弾丸も魔法の杖も万能薬も無い。誰もが人であり英雄はいない。私は英雄の不在を嘆くのではなく、やがて死すべき一個の人間として自分の成しうる限りを模索するべきだろう。それは難しいことなので他人に任せておきたいという気持ちもありつつ、それを放棄する生き方は退屈で不快なだけなので耐えられないとも思っている。
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