tinc さんの日記
2019
8月
26
(月)
21:37
本文
私は背が低い(170cmしかない)。男性としてはかなり不利なことだと思う。
数年前、ふとしたことから長身で頭髪の薄い知人と「チビとハゲはどっちが悲惨か」という議論になったことを今でも時々思い出す。結果から言うと私は議論に勝利し(議論において勝敗に言及することは不毛であるが、そもそもチビとハゲを対立させて議論することが不毛)、「私はより悲惨な境遇にある者として同情を買って然るべきであり、たまに長身の人間から食事を奢ってもらう権利を有する」という合意を彼との間に形成した。彼は長身であるだけでなく高学歴でもあったので私はそれだけでは内心不満であったが、草の根的な活動は少しずつ結実を重ねてゆくものだと思って堪えてやった。
世間と折り合いをつけながら自分を生かしてゆくということは、私のような人間にはとても難しかった。容姿にも金にも才覚にも人格にも恵まれないことで、他人に尊重される機会を逸しやすいのだった。また自分の側からも世間へ貢献し難かった。これら二つが劣等感と無力感を相互に再生産する。私はこのことにかなり苦しんだ。しかし今はそれを殆ど忘れている。私自身は何も変わっていない、それどころか年齢を重ねたぶん衰えているので状況は悪化している(通常は年齢と共に得るものもあるのだが、私は成長しないので)にもかかわらずである。
なぜなら私は劣等感と無力感を乗り越えたのではなく、それらを乗り越えることをいつか諦めたのであった。出来のいい頭ではないので、仮に長生きできたとしても死ぬまでの間にできることは限られていることに思い至ったことから、好きなことだけに目を向けて生きるようにしたのだった。それは映画だったり小説だったり音楽だったり煙草だったり、あるいはたとえば今日のように、それまで続いていた暑さが和らいで涼しい風の吹いてくる日であったり、散歩をする犬や毛づくろいをする猫の姿であったりする。当然現実には暗く汚い側面が必ず存在する。それらは逃げれば追ってくるし戦えばこちらを負かすし、眠れば夢に出てきて、頭を空っぽにしようとする時には決まってずかずかと入ってくるので、こちらから近づかなくとも向こうから来る分だけでたくさんなのだ。嫌な奴はいるものだ。そういう奴もいないと事物は成り立たない。私の人生においては諦めが重要な役割を果たしている。
数年前、ふとしたことから長身で頭髪の薄い知人と「チビとハゲはどっちが悲惨か」という議論になったことを今でも時々思い出す。結果から言うと私は議論に勝利し(議論において勝敗に言及することは不毛であるが、そもそもチビとハゲを対立させて議論することが不毛)、「私はより悲惨な境遇にある者として同情を買って然るべきであり、たまに長身の人間から食事を奢ってもらう権利を有する」という合意を彼との間に形成した。彼は長身であるだけでなく高学歴でもあったので私はそれだけでは内心不満であったが、草の根的な活動は少しずつ結実を重ねてゆくものだと思って堪えてやった。
世間と折り合いをつけながら自分を生かしてゆくということは、私のような人間にはとても難しかった。容姿にも金にも才覚にも人格にも恵まれないことで、他人に尊重される機会を逸しやすいのだった。また自分の側からも世間へ貢献し難かった。これら二つが劣等感と無力感を相互に再生産する。私はこのことにかなり苦しんだ。しかし今はそれを殆ど忘れている。私自身は何も変わっていない、それどころか年齢を重ねたぶん衰えているので状況は悪化している(通常は年齢と共に得るものもあるのだが、私は成長しないので)にもかかわらずである。
なぜなら私は劣等感と無力感を乗り越えたのではなく、それらを乗り越えることをいつか諦めたのであった。出来のいい頭ではないので、仮に長生きできたとしても死ぬまでの間にできることは限られていることに思い至ったことから、好きなことだけに目を向けて生きるようにしたのだった。それは映画だったり小説だったり音楽だったり煙草だったり、あるいはたとえば今日のように、それまで続いていた暑さが和らいで涼しい風の吹いてくる日であったり、散歩をする犬や毛づくろいをする猫の姿であったりする。当然現実には暗く汚い側面が必ず存在する。それらは逃げれば追ってくるし戦えばこちらを負かすし、眠れば夢に出てきて、頭を空っぽにしようとする時には決まってずかずかと入ってくるので、こちらから近づかなくとも向こうから来る分だけでたくさんなのだ。嫌な奴はいるものだ。そういう奴もいないと事物は成り立たない。私の人生においては諦めが重要な役割を果たしている。
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