Bishop さんの日記
2019
8月
18
(日)
21:49
本文
前回、光秀謀反の真相について私なりの考えも書きましたが、もうひとつ付け加えたいことがありました。
それは、どうしてあの日、天正10年6月2日(1582年6月21日)だったのか?ということです。
もちろん、信長が本能寺で数少ない配下の者だけでいたことが理由なのですが、政局的にもこの日を逃すとチャンスがなくなると判断したのでしょう。
ひとつは、前にも書いたかもしれませんが、四国攻めの織田信孝旗下14.000の軍が、その当日に大阪から出航する予定だったことがあります。
そして、もうひとつ。
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)がありました。
変の少し前、朝廷側から信長に対して、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することを提案されておりました。
信長はこれを一旦保留にしています。
どうして保留にしたか?
このことも、歴史上の謎とされています。(興味のある方は調べるのも面白いと思います。)
で、その返答の日が近づいていたのではないか?ということです。
もし、信長が征夷大将軍を選ぶことになったら、足利義昭はその時点で征夷大将軍を失脚することになる。これを阻止したい気持ちが光秀にあったのでは?ということです。
そして、これは私の想像ですが、御上から授けられるこれらの冠位を受けた直後に信長を討つことは、御上に弓ひくことを意味しないか?ということ。
それに、信長を頂点とする武士の封建的主従関係が完成してしまうということ。
そうなってしまうと、光秀が描く次の世界のためには、もうすこし義昭に将軍でいてもらわないと困る。
ということではないだろうか?
だって、信長くんよりも義昭くんのほうがあやつりやすいやん!
さて、最後にもうひとつのミステリーです。
そう、
明智光秀は山崎の戦い(天王山の戦い)で敗れ去り、坂本城へ逃げ戻る途中で落ち武者狩りに襲われ落命したとされているが、本当は生き延びて徳川家康の側近南光坊天海となった とされている意見もあるが、はたしてそれは事実か?
ということですね。
明智光秀=南光坊天海
その理由。
ウィキペディアには
1 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
2 徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
3 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
4 明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
5 明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
6 天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。
などがあげられています。
その他、
1 日光東照宮陽明門にある随身像や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている。
2 童謡かごめかごめの歌詞に天海の暗号が光秀=天海だといわれている。
3 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑がある。
他にも、たくさんあるようです。
しかし、桔梗の紋は、加藤清正も桔梗であり、かならずしも日光東照宮の桔梗の紋が明智の紋とはいいきれなし、他のことにしても決定的な証拠はないのが事実。
これも、本能寺の変の真相と同様にいくつかの事象をとりあげて推測されているだけの話しです。
そして、天海はたしかに長生きしたようですが、もし、仮に光秀が天海だとすると100歳は超えていたことになりそうで、当時の寿命から、ちょっと考えにくいというのもあります。
天海は会津出身という話しもあって、やはり光秀=天海はちょっと無理があるのではないでしょうか。
ただ、光秀の重臣秀満(左馬之助)が天海でないか?という説があり、これについては、私も有りうると思えます。
彼は、非常に優秀な家臣でしたし、光秀に忠節を尽くした人です。
明智左馬之介の湖水渡り伝説というのがあり、山崎の戦いの後生き延び、秀吉からの追っ手をふりきり、坂本城へ戻るために、琵琶湖に馬を乗入れ、現在の大津市打出浜あたりから大津市唐崎へ馬とともに泳いで渡り、坂本城を自らの手で火を付け自害したとつたえられています。
もし、自害せずに生き延びたとしたら・・・。
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来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の放送に先立ち、明智光秀を追いかけてきましたが、謎の多い武将であったことはわかりました。
比叡山焼き討ちには反対していたように捉えていましたが、どうやら焼き討ちに積極的であったようですし、「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。」(ルイス・フロイス)の言葉もおそらく、事実でしょう。
そんな、ある意味悪党である人物をNHKの大河ドラマではどのように扱うのか?
というのも興味があります。
いろいろと書いてきたブログですが、もっともっと書きたかったこともありますが、限られた時間のなかでは難しいなと痛感しました。
しかし、励ましのコメントをいただいたおかげで、なんとか終わりをむかえられました。
そして、私自身すごく勉強になりましたし、これからも、自分なりに歴史の勉強をしながら、そのゆかりの地を訪れたいと思いました。
長くお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
それは、どうしてあの日、天正10年6月2日(1582年6月21日)だったのか?ということです。
もちろん、信長が本能寺で数少ない配下の者だけでいたことが理由なのですが、政局的にもこの日を逃すとチャンスがなくなると判断したのでしょう。
ひとつは、前にも書いたかもしれませんが、四国攻めの織田信孝旗下14.000の軍が、その当日に大阪から出航する予定だったことがあります。
そして、もうひとつ。
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)がありました。
変の少し前、朝廷側から信長に対して、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することを提案されておりました。
信長はこれを一旦保留にしています。
どうして保留にしたか?
このことも、歴史上の謎とされています。(興味のある方は調べるのも面白いと思います。)
で、その返答の日が近づいていたのではないか?ということです。
もし、信長が征夷大将軍を選ぶことになったら、足利義昭はその時点で征夷大将軍を失脚することになる。これを阻止したい気持ちが光秀にあったのでは?ということです。
そして、これは私の想像ですが、御上から授けられるこれらの冠位を受けた直後に信長を討つことは、御上に弓ひくことを意味しないか?ということ。
それに、信長を頂点とする武士の封建的主従関係が完成してしまうということ。
そうなってしまうと、光秀が描く次の世界のためには、もうすこし義昭に将軍でいてもらわないと困る。
ということではないだろうか?
だって、信長くんよりも義昭くんのほうがあやつりやすいやん!
さて、最後にもうひとつのミステリーです。
そう、
明智光秀は山崎の戦い(天王山の戦い)で敗れ去り、坂本城へ逃げ戻る途中で落ち武者狩りに襲われ落命したとされているが、本当は生き延びて徳川家康の側近南光坊天海となった とされている意見もあるが、はたしてそれは事実か?
ということですね。
明智光秀=南光坊天海
その理由。
ウィキペディアには
1 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
2 徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
3 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
4 明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
5 明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
6 天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。
などがあげられています。
その他、
1 日光東照宮陽明門にある随身像や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている。
2 童謡かごめかごめの歌詞に天海の暗号が光秀=天海だといわれている。
3 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑がある。
他にも、たくさんあるようです。
しかし、桔梗の紋は、加藤清正も桔梗であり、かならずしも日光東照宮の桔梗の紋が明智の紋とはいいきれなし、他のことにしても決定的な証拠はないのが事実。
これも、本能寺の変の真相と同様にいくつかの事象をとりあげて推測されているだけの話しです。
そして、天海はたしかに長生きしたようですが、もし、仮に光秀が天海だとすると100歳は超えていたことになりそうで、当時の寿命から、ちょっと考えにくいというのもあります。
天海は会津出身という話しもあって、やはり光秀=天海はちょっと無理があるのではないでしょうか。
ただ、光秀の重臣秀満(左馬之助)が天海でないか?という説があり、これについては、私も有りうると思えます。
彼は、非常に優秀な家臣でしたし、光秀に忠節を尽くした人です。
明智左馬之介の湖水渡り伝説というのがあり、山崎の戦いの後生き延び、秀吉からの追っ手をふりきり、坂本城へ戻るために、琵琶湖に馬を乗入れ、現在の大津市打出浜あたりから大津市唐崎へ馬とともに泳いで渡り、坂本城を自らの手で火を付け自害したとつたえられています。
もし、自害せずに生き延びたとしたら・・・。
来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の放送に先立ち、明智光秀を追いかけてきましたが、謎の多い武将であったことはわかりました。
比叡山焼き討ちには反対していたように捉えていましたが、どうやら焼き討ちに積極的であったようですし、「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。」(ルイス・フロイス)の言葉もおそらく、事実でしょう。
そんな、ある意味悪党である人物をNHKの大河ドラマではどのように扱うのか?
というのも興味があります。
いろいろと書いてきたブログですが、もっともっと書きたかったこともありますが、限られた時間のなかでは難しいなと痛感しました。
しかし、励ましのコメントをいただいたおかげで、なんとか終わりをむかえられました。
そして、私自身すごく勉強になりましたし、これからも、自分なりに歴史の勉強をしながら、そのゆかりの地を訪れたいと思いました。
長くお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
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