Bishop さんの日記
2019
7月
21
(日)
22:57
本文
光秀討伐のために、200kmを高速移動しながら、秀吉は次なる手を打ちます。
以前書きましたが、光秀が本能寺の変で犯した唯一の失敗。
そう、” 信長の首を取れなかったこと。信長の遺体が見つかっていない “
これを、秀吉は利用したのです。
「上様 何も御別儀なく 御切り抜けなされ・・・」
各地の武将にこのような文面がある書状を送り、自分に味方をして共に、光秀を討とうではないか!と呼びかけたのです。
信長は生きている・・・武将たちの心が揺さぶられるのも当然です。
恐るべし、秀吉の情報戦略。
光秀はこれによりいっきに追いつめられることとなります。
細川からも味方になるとういう返事ももらえなかった光秀は再度、細川藤孝に手紙を送ります。
「信長を倒した理由は嫡男・細川忠興のため。 周辺の国々を制圧したら細川家に与えるつもりだ。」
もはや、光秀の周到な計算より、あせりがにじみ出ています。
もうひとりの大和 筒井順慶はどうか?
こちらも、光秀の娘が嫁いでいましたが、協力は得られず、完全に孤立化してしまいます。
京都市歴史資料館館長の 井上満郎 氏は・・・
「光秀が信長を討った時点で、多くの武将たちの” どんぐりの背比べ ”というと語弊があるかもしれないが、そういう状況になった。そうなると、その中から誰が、頭ひとつ抜け出すのか?さらには全将を従えて天下を統一するのか?という状況になる。
そういう武将たちはいわば様子見をしていたのではないか?というのがいちばん適切ではないかと思う。」とおっしゃっています。
筆頭家臣である柴田勝家をはじめ、滝川一益、徳川家康、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉などの重臣はみな健在である。周囲の武将はというと、本能寺の変からわずか一週間のこの時点では、様子をうかがっていたのに違いないということでしょう。
秀吉が引き返してくるという状況を知った光秀はどういう心境だったのでしょう?
秀吉が帰ってくるとしても、そんな大軍を連れて帰ってこれないだろう。また、そうであったとしても、疲れていて戦にならないだろうとか楽観的に考えていた。そこは人間の心理で、良い方へ良い方へ考えてはいけないのだが、ついついそう考えてしまう。
と小説家 伊藤潤さんはおっしゃっています。
そして、光秀の運命を決定させた “ 人たらし ” 秀吉の秘策が・・・。
勝敗の分かれ目という意味でよく使われる 『天王山』
2017年5月4日 山崎古戦場跡
後ろの山が天王山 この場所に明智軍の本陣があったそうです。
この場所から、秀吉軍の旗指物がいっぱい立っている天王山を見たとき、光秀軍は圧倒されたかもしれませんね。
2019年6月9日 天王山登山口
2019年6月9日 宝積寺
登山口から少し入るとあります。
御本尊は大黒天神です。
通称「宝寺(たからでら)」とも言われて、商売繁盛などのお参りに参拝されるかたも多いみたいです。
一寸法師が修行し、お寺にあった「打出」と「小槌」のご利益で鬼を退治したそうです。
お姫様と結婚し出世がかなったという話も寺伝としてあるそうです。
天王山の戦いでは秀吉軍の本陣があったところで、境内には秀吉が腰をかけた「出世石」もあります。
ここを本陣にしたことで、光秀との戦いを有利に進められたそうです。
2019年6月9日 天王山山頂
残念ながら、明智軍本陣があるところを撮影したはずなんですが、どこかへ消えてました。
この山から京都方面を見れば、明智軍の動きは手に取るようにわかります。
天正10年6月13日 本能寺の変からわずか12日目
山崎の地に羽柴軍が現れました。
羽柴は軍勢4万(秀吉は中国大返しをしながら味方を集め軍勢は倍増しています)
これに対する明智勢は1万ほど。
どうして、秀吉は軍勢を増やすことができたのか?
それは、摂津にいた信長の三男、織田信孝を味方にしたことです。
彼は、丹羽長秀と共に四国攻めの準備をしていたのですが、本能寺の事件後1万の兵たちが動揺し、半数以上が逃亡してしまい立ち往生していたのです。
これに知った秀吉は「人たらし」ぶりを発揮。
総大将・織田信孝を担ぎ上げてしまったのです。
このことで、未だ日和見を決め込む他の武将、池田恒興、中川清秀、高山右近なども味方にすることができたのです。
秀吉はここまで、計算した上で信孝を懐柔したのです。
羽柴軍から織田軍にすることで一気に形勢は秀吉に傾きました。
そうなると、光秀はもはや逆賊。
勝てる見込みはほとんどありません。
また、軍師 黒田官兵衛は毛利と和解する時に、毛利家の旗指物(一文字三星)を貸してほしいと頼み、この山崎の陣においてその旗指物を兵に上げさせています。
毛利軍までもが秀吉の見方になったのか?と光秀軍はおおいに動揺したことでしょう。
秀吉の人心掌握術というのは人並みではない。あらゆる知恵をしぼった上で作戦を積み上げていく。
そして、その手を打つスピードの速さが勝負を決したのではないでしょうか。
腹心 斎藤利三は光秀に撤退を進言します。
しかし、光秀は「私のような大きな利益を得た大将にはいかなる悪逆な輩も刃向えない」と主張。
退いては、京都が戦場となってしまうと考え撤退を拒否したのです。
朝廷からの「京をたのむ」との言葉。
その大義を手にしたが、しかしそれが、光秀の運命を決めてしまったようです。
それでも、まだ光秀は形勢逆転を考えました。
天王山の南東には淀川(桂川・宇治川・木津川の合流点)があり山と川の間は狭く、そこで決戦すれば勝機があると考えました。
そして、午後4時決戦の火ぶたはきられました。
多勢に無勢の明智軍は瓦解。
わずか2時間で決着しました。
敗れ去った光秀は、居城・坂本城を目指し撤退しますが、小栗栖というところで落ち武者狩りにより落命したとされています。
京都市歴史資料館館長の 井上満郎 氏は、
「光秀がもう少し政治力があって、もう少し調整能力があったうえで、もう少し時間を積み重ねておれば、天下を取った可能性は十分あったと思います。」とおっしゃり、
小説家 伊藤潤 氏は、
「おそらく、秀吉はここで光秀を破れば自分が天下人に成れるのではないか?というひじょうに高いモチベーションがあり、しかも謀反人を討つということで、自分には大義がある。
まあ、光秀も周到だったけど、秀吉の方が上手だったんでしょうね。」
傑物 秀吉に敗れ去った光秀ですが、彼が戦国の世で果たしたことは秀吉も家康もしっかり参考にしたのではないでしょうか。
「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」と言われています。
結果として、このお膳立てをしたのは、明智光秀ではなかったかなと思います。
光秀謀反の真相は?
それと、ほんとうに光秀はこの戦いの後に亡くなったのでしょうか?
このブログ、もう少しおつきあいくださいね。
以前書きましたが、光秀が本能寺の変で犯した唯一の失敗。
そう、” 信長の首を取れなかったこと。信長の遺体が見つかっていない “
これを、秀吉は利用したのです。
「上様 何も御別儀なく 御切り抜けなされ・・・」
各地の武将にこのような文面がある書状を送り、自分に味方をして共に、光秀を討とうではないか!と呼びかけたのです。
信長は生きている・・・武将たちの心が揺さぶられるのも当然です。
恐るべし、秀吉の情報戦略。
光秀はこれによりいっきに追いつめられることとなります。
細川からも味方になるとういう返事ももらえなかった光秀は再度、細川藤孝に手紙を送ります。
「信長を倒した理由は嫡男・細川忠興のため。 周辺の国々を制圧したら細川家に与えるつもりだ。」
もはや、光秀の周到な計算より、あせりがにじみ出ています。
もうひとりの大和 筒井順慶はどうか?
こちらも、光秀の娘が嫁いでいましたが、協力は得られず、完全に孤立化してしまいます。
京都市歴史資料館館長の 井上満郎 氏は・・・
「光秀が信長を討った時点で、多くの武将たちの” どんぐりの背比べ ”というと語弊があるかもしれないが、そういう状況になった。そうなると、その中から誰が、頭ひとつ抜け出すのか?さらには全将を従えて天下を統一するのか?という状況になる。
そういう武将たちはいわば様子見をしていたのではないか?というのがいちばん適切ではないかと思う。」とおっしゃっています。
筆頭家臣である柴田勝家をはじめ、滝川一益、徳川家康、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉などの重臣はみな健在である。周囲の武将はというと、本能寺の変からわずか一週間のこの時点では、様子をうかがっていたのに違いないということでしょう。
秀吉が引き返してくるという状況を知った光秀はどういう心境だったのでしょう?
秀吉が帰ってくるとしても、そんな大軍を連れて帰ってこれないだろう。また、そうであったとしても、疲れていて戦にならないだろうとか楽観的に考えていた。そこは人間の心理で、良い方へ良い方へ考えてはいけないのだが、ついついそう考えてしまう。
と小説家 伊藤潤さんはおっしゃっています。
そして、光秀の運命を決定させた “ 人たらし ” 秀吉の秘策が・・・。
勝敗の分かれ目という意味でよく使われる 『天王山』
2017年5月4日 山崎古戦場跡
後ろの山が天王山 この場所に明智軍の本陣があったそうです。
この場所から、秀吉軍の旗指物がいっぱい立っている天王山を見たとき、光秀軍は圧倒されたかもしれませんね。
2019年6月9日 天王山登山口
2019年6月9日 宝積寺
登山口から少し入るとあります。
御本尊は大黒天神です。
通称「宝寺(たからでら)」とも言われて、商売繁盛などのお参りに参拝されるかたも多いみたいです。
一寸法師が修行し、お寺にあった「打出」と「小槌」のご利益で鬼を退治したそうです。
お姫様と結婚し出世がかなったという話も寺伝としてあるそうです。
天王山の戦いでは秀吉軍の本陣があったところで、境内には秀吉が腰をかけた「出世石」もあります。
ここを本陣にしたことで、光秀との戦いを有利に進められたそうです。
2019年6月9日 天王山山頂
残念ながら、明智軍本陣があるところを撮影したはずなんですが、どこかへ消えてました。
この山から京都方面を見れば、明智軍の動きは手に取るようにわかります。
天正10年6月13日 本能寺の変からわずか12日目
山崎の地に羽柴軍が現れました。
羽柴は軍勢4万(秀吉は中国大返しをしながら味方を集め軍勢は倍増しています)
これに対する明智勢は1万ほど。
どうして、秀吉は軍勢を増やすことができたのか?
それは、摂津にいた信長の三男、織田信孝を味方にしたことです。
彼は、丹羽長秀と共に四国攻めの準備をしていたのですが、本能寺の事件後1万の兵たちが動揺し、半数以上が逃亡してしまい立ち往生していたのです。
これに知った秀吉は「人たらし」ぶりを発揮。
総大将・織田信孝を担ぎ上げてしまったのです。
このことで、未だ日和見を決め込む他の武将、池田恒興、中川清秀、高山右近なども味方にすることができたのです。
秀吉はここまで、計算した上で信孝を懐柔したのです。
羽柴軍から織田軍にすることで一気に形勢は秀吉に傾きました。
そうなると、光秀はもはや逆賊。
勝てる見込みはほとんどありません。
また、軍師 黒田官兵衛は毛利と和解する時に、毛利家の旗指物(一文字三星)を貸してほしいと頼み、この山崎の陣においてその旗指物を兵に上げさせています。
毛利軍までもが秀吉の見方になったのか?と光秀軍はおおいに動揺したことでしょう。
秀吉の人心掌握術というのは人並みではない。あらゆる知恵をしぼった上で作戦を積み上げていく。
そして、その手を打つスピードの速さが勝負を決したのではないでしょうか。
腹心 斎藤利三は光秀に撤退を進言します。
しかし、光秀は「私のような大きな利益を得た大将にはいかなる悪逆な輩も刃向えない」と主張。
退いては、京都が戦場となってしまうと考え撤退を拒否したのです。
朝廷からの「京をたのむ」との言葉。
その大義を手にしたが、しかしそれが、光秀の運命を決めてしまったようです。
それでも、まだ光秀は形勢逆転を考えました。
天王山の南東には淀川(桂川・宇治川・木津川の合流点)があり山と川の間は狭く、そこで決戦すれば勝機があると考えました。
そして、午後4時決戦の火ぶたはきられました。
多勢に無勢の明智軍は瓦解。
わずか2時間で決着しました。
敗れ去った光秀は、居城・坂本城を目指し撤退しますが、小栗栖というところで落ち武者狩りにより落命したとされています。
京都市歴史資料館館長の 井上満郎 氏は、
「光秀がもう少し政治力があって、もう少し調整能力があったうえで、もう少し時間を積み重ねておれば、天下を取った可能性は十分あったと思います。」とおっしゃり、
小説家 伊藤潤 氏は、
「おそらく、秀吉はここで光秀を破れば自分が天下人に成れるのではないか?というひじょうに高いモチベーションがあり、しかも謀反人を討つということで、自分には大義がある。
まあ、光秀も周到だったけど、秀吉の方が上手だったんでしょうね。」
傑物 秀吉に敗れ去った光秀ですが、彼が戦国の世で果たしたことは秀吉も家康もしっかり参考にしたのではないでしょうか。
「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」と言われています。
結果として、このお膳立てをしたのは、明智光秀ではなかったかなと思います。
光秀謀反の真相は?
それと、ほんとうに光秀はこの戦いの後に亡くなったのでしょうか?
このブログ、もう少しおつきあいくださいね。
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