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Bishop さんの日記
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Bishop さんの日記

 
2019
7月 21
(日)
13:04
山崎 その①
本文

< 勝竜寺公園  2017年5月4日 >

信長側30人対光秀軍13,000人では勝負になりません。わずか1時間で決着はつきました。
信長側としたのも、信長もその家臣たちも不意打ちをくらったわけで軍の形になっていなかったからです。
信長は明智勢が攻め込んだとき、誰のしわざか?と問いました、森長定(森蘭丸)が「明智の軍勢と見受けます」と答え、信長は「是非に及ばず」と答えたという。
この時点で、すでに勝敗は決したと信長は思ったのでしょう。
光秀に自分の首を渡すわけにはいかないと考え、奥へ入り自ら、火を点け、切腹したと考えられています。
したがって、信長の首や遺体が見つからなかったのは、あまりの火の勢いで、その存在が失せたか、もしくは、以前にもブログ(平成30年9月5日)で書きましたが、阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょく しょうにん)がその遺骸を持ち去り、寺に埋葬したかのどちらかだと、私は思います。
そして、兜だけは「焼け兜」として後日、誰かの手に渡り、現在、清洲の総見院さんにあることも、ブログで書きました。(平成31年3月21日)
いくら探しても、その遺骸は見つからず、しかたなく明智勢は、二条の新御所にいる信長の嫡男 信忠を攻め、そして自害に追い込んだのでした。

そして、その日の午後、安土城を目指し進軍開始。
しかし、京を出て安土へ向かう道中は、信長の家臣たちの領地です。
安土へ向かうためには、その家臣たちを味方にする必要がありました。
まず瀬田の城主に使者を送ったのですが、城主は瀬田川にかかる唐橋を壊して逃亡しました。
彼ら信長家臣たちからすれば、光秀は逆賊であるため、彼らを説得するには、大義が必要だと痛感したようです。
やむを得ず、安土に向かわず、居城の坂本城へはいります。
2日後、橋の修復が完了し、ふたたび安土をめざしまた。
ところが、安土城へ到着した時は、城はもぬけのからだったのです。
光秀が攻めてくると怯えて逃げ出したようです。
そして、城の中にあった、金銀財宝を光秀は手に入れました。(ラッキ~!!)

あとは、信長を討った「大義名分」があれば・・・、と考えていた矢先。
本能寺の変の5日後、光秀の元へ朝廷からの使者である 吉田兼見(よしだかねみ)が安土を訪れたのです。
正親町天皇(おうぎまちてんのう)の第一皇子である誠仁親王(さねひとしんのう)からの言葉を伝えに来たのです。
その言葉とは・・・「京を頼む」というものでした。
吉田兼見(よしだかねみ)・・・藤原氏の氏神を祀る吉田神社の神主(公家の名門)

実は、本能寺の変の当日、光秀と吉田兼見は洛中で会っていたのでした。
吉田兼見の日記である「兼見卿記」にそのことが記されているのですが、この「兼見卿記」は二冊存在しています。
一冊には、二日 光秀と粟田口で面会とありますが、もう一冊にはそのような記述はありません。
吉田兼見は、謀反の当日、光秀に自分の所領を守って欲しいと頼みにいったのではないかとのことです。それほど光秀とは仲が良かったようです。
それで、もし光秀と会っていたことが表沙汰になったら、謀反の片棒を担いだと言われ、自分の命が危ない。それで日記を書きなおしたのではないかと言われています。
おそらくこの時、光秀は兼見に調停工作を頼んだのではないか?と小説家 伊藤潤さんは言っておられます。
そして、その工作の結果、朝廷からのお墨付き、つまり「大義名分」が出来たのです。
光秀は、安土で手に入れた信長の財産を朝廷や京都の有力な寺社仏閣に献上しました。
もちろん、吉田兼見にも・・・。
この時点で、京は完全に抑えたと光秀は思ったことでしょう。

しかし、すでにこの時、あの男は動いていました。・・・羽柴秀吉です。

ここからは、秀吉との情報戦になっていきます。

京を抑えた光秀は、味方を募るために、各地の武将に密書を送ります。
“ 信長父子の悪逆は天下の妨げになったため討ち果たした。
詳細は家臣が伝えるから味方になってほしい “
多くの武将の見方を得て、信長なきあとの世を平穏なものにしたいと望んでいたのでしょう。
特に味方にしたかったのは、丹後 細川藤孝 大和 筒井順慶 でした。
丹波から京、近江はすでに光秀が抑えているため、この二人が味方についてくれれば、畿内のほとんどで絶大な力を持つことが出来ると考えました。

本能寺の変 7日後 光秀自身は軍勢を京都の南 勝竜寺城まで進めました。
この勝竜寺城は、もともと細川家が持っていた城で、細川藤孝の嫡男 細川忠興が治めていました。光秀の娘 玉(たま)が嫁いだ先ですね。
細川 玉・・・洗礼名を ガラシャ といいます。
細川ガラシャといえば、歴史好きの女性ならご存知のかたも多いかと思います。
キリタンで、忠興も彼女の影響でキリシタンになったとも言われています。
仲の良い夫婦ですが、彼女もまた、戦国の世に振りまわされた哀しい人生を送っています。

細川藤孝と光秀は信長の家臣となる前からの、いわば旧知の仲であり、その息子に娘を嫁がせた(信長の命令でもある)のだから、当然味方になってくれるものと思っていたでしょう。

< 細川忠興と玉(ガラシャ)  2017年5月4日>

羽柴秀吉が光秀謀反の情報を得たのは本能寺の変 2日後という早さでした。
その時 秀吉勢は、備中高松城の清水宗治ら毛利勢と対峙していました。
備中高松城と京都の間は約200kmあったのに、どうしてそんなに早く情報がつかめたのでしょう。
秀吉は、信長との連絡において早く、密に行う必要があったため、各宿場に馬を用意してあったようです。
ちゃんと報告しないと 信長に叱られる! ほうれんそう(報連相)は出世の秘訣であるということも、秀吉ならよくわかっていたのでしょうね。
当時は今のように情報がどんどん入ってくることがないため、一刻も早く情報を掴むことは非常に重要であったのです。
そういう意味で、秀吉のこうした情報ネットワークの構築は戦国を勝ち残るための重要なカギだったわけですね。
また、道路を整備して、軍勢の移動や兵糧の補給確保などのいわゆる兵站(へいたん)も彼は力をいれていました。

秀吉は、軍師 官兵衛とともに、京へ引き返し逆賊光秀を討つことを決意します。
しかし、直ぐに行動を起こさないと、光秀に体制を固められては、不味いことになります。
だが今、毛利と対峙している状態で、いかにこの状況を打開するのか?
備中高松城はすでに兵糧攻め(水攻め)をして宗治の降伏を迫っているところでした。
しかし、宗治は降伏をかたくなに拒絶。援軍毛利の反撃を期待しています。
他の毛利勢としても、秀吉の巧みな戦術と20,000の軍勢を前に動けない状況でした。
秀吉は、毛利に対して「清水宗治の命と引き換えに、城と城兵の安堵をする」という条件を出します。
この条件を毛利は受け入れ、清水宗治の切腹により、城と領土を守りました。
決着をつけた秀吉軍は、すぐさま京へ向かいます。
有名な “ 中国大返し “。
わずか、8日間で戻るという離れ業を秀吉はやってのけたのです。


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