Bishop さんの日記
2019
7月
6
(土)
23:19
本文
タイトルが長すぎて全部入らへん(笑)
タイトル : 高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり~ 京都歴史ミステリー本能寺の変SPを見て・・・
暑い夏もイヤ! 寒い冬もイヤ! ですが、ジメジメしたこの梅雨の時期はもっとイヤです。
でも、頑張って働かないと、「おまんま」にありつけまへん!
前回の終わりに、
ここで、のちのち重要なことがひとつあります。
それは、
“ 明智勢は信長の首を取れなかったこと、発見できなかったことです。 ”
どうして、それが重要なのか? それは次回、山崎の合戦で・・・。
と書きましたが、その前に、こんなテレビ番組があったなあと思いだしましたので・・・。
参考にしていただければ幸いです。
以下は、御存知 私の大好きなあの人の番組 「高島礼子・日本の古都」という表記の番組を視聴した内容です。
(すでにこの番組は放送が終了しています。)
番組では、光秀という人物はどういう人物だったのか?を最初に整理してくれています。
歴史小説家の 伊藤 潤 さんは、
光秀は他の織田家家臣とは違い中途採用であったため常に信長に対して忠誠心を見せておく必要があった。
そのためには手段を選ばなかった。
将軍家の足利一族であった義昭に仕えて取り入り、信長に近づいた。
結局は義昭と縁を切り信長だけに仕えるのだが、自分は信長様一途でございますというのを表す必要があった。
信長は実力主義であったため、人情などにほだされていては出世が止まってしまう。
自分の野心のためには、そういう冷酷非情なところも必要であった。と言っています。
歴史研究家で、多摩大学客員教授の 河合 敦 さんも、
光秀は最初、朝倉義景にとりたてられたがこれを見捨て、次に仕えた足利義昭をも見捨てている。そういった意味でも、人を見限る癖があった。
また、比叡山焼き討ちでも積極的であったし、仰木という信長に反対する一族を皆殺しにしろという命令も出している。
そういった意味でも、かなり残虐性があったとみるべきだと言っています。
こうして、丹波を任されるまで出世して行ったのだが、光秀のこうした信長に対する忠誠心は本心だったのか?
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」には光秀像がこう書かれている。
“ 裏切りや密会を好み、刑を科するに残虐で独裁的であったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争において謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人である “
これこそが、信長の信頼を勝ち取るための、光秀の素顔であったかもしれない。と・・・。
そして、信長を裏切る心はいつ沸き起こったのか?
何が彼を本能寺の変へとかりたてたのか?
伊藤 潤さんは、
源頼朝の鎌倉時代も足利尊氏の室町時代も家柄が大きくものをいって、その力で号令して幕府を築いたが、信長は武力により他国を切り取りその力で天下統一を目指した。
と語り、
番組では
このようなやり方に名門武士出身の光秀は共感できたのか?としています。
そして、光秀を悩ましたのが、大きすぎる「信長の野望」であったと・・・。
それは、天下統一後のターゲットはアジア大陸に広げるとのプランを持っていた。と・・
これに続き、伊藤 潤 さんは、
今ままでは、同じ目標で、同じベクトルであったが、信長のアジア進出の話には、「えっ?まだやるの?」というふうに考えていたのではないだろうか?
天下統一しても、まだまだ、手を緩めず家臣は働かねばならない。信長より年上の光秀は、そろそろ引退してもいいくらい思っていたのに、まだ働かされる。こういうことも、謀反の心をもった理由のひとつではないか?と言っておられます。
終わりの見えない戦乱の世。名門武士に生まれ、本来保守的であったと言われる光秀には、胸に秘めたひとつの願いがあった。
その願いは、古いものを破壊し、全てを我が物とする信長の元では、実現できない物であった。
それが、以前のブログでご紹介した、愛宕山 連歌の会 愛宕百韻で、光秀は、土岐家再興を願っていたのではないか?と番組では結論づけています。
ただ、愛宕百韻で謀反の決意表明をしても、謀反を成功させる為には、部下たちを説得しなければならない。
光秀の家臣は、ほとんどが信長が派遣した与力であり、信長のスパイでもある。これは信長にすれば安心材料のひとつである。
もちろん彼らは、光秀も信頼しているが・・・。
光秀が抱いた謀反の心を万一密告されれば、全て計画はとん挫してしまうことになる。
したがって、この家臣への説得がカギを握っていたのである。としています。
結局、謀反の前日に、家臣5名に打ち明けるのだが、全員反対したということです。
特に、光秀の右腕とされていた、斎藤利三(さいとうとしみつ)を説得する必要があった。
斎藤利三と四国の大名、長宗我部元親は親戚関係にあり、信長と長宗我部は同盟関係にあった。
しかし、信長はこの同盟を一方的に破棄し、長宗我部に領地明け渡しを迫った。
長宗我部は、しぶしぶ、この要求をのんだが、それでも信長は兵を四国に送る準備を始めた。
利三にとっては、これは身内の危機である。信長に母親を殺害された過去をもつ光秀は、利三の心に訴えたと・・・。
そして、冷酷な信長への憤りを巧みに利用し説得に成功したとしています。
これで、家臣たち一同は一気に光秀について行ったと言っています。
信長は、数々の謀反を切り抜けてきたが、生涯唯一の失敗を犯してしまった。
そして、光秀の策略とは??
長い年月をかけて培った、光秀の忠誠心・・・これが信長の最大の失敗であったし、これこそが、光秀の策略であったのではないか?
光秀は、決して謀反を計画的に進めてきたのでは無いと言われている。
最強の男、信長に生じた、言わば奇跡の油断。
それこそが、光秀を一気に本能寺の変へとかりたてたのだ。
信長の油断とは・・・。
事件の前日、本能寺で自慢の茶器を披露する茶会を開くため、信長はわずか30人程しか従えずに宿泊していた。
いざとなれば、直ぐ近くに、腹心の臣下光秀がいると安心しきっていた。
その日多くの武将たちも京都付近にはいなかった。
羽柴軍は中国で毛利軍と対峙。柴田軍は北陸で上杉軍と対峙。滝川一益は北条勢討伐で上野へ。丹羽長秀は大坂は堺へ、それぞれ散らばっていた。
万一、彼らが謀反を知っても直ぐには京へ駆けつけることは出来なかった。
光秀は、これらの状況を見て「今だ!」と決断。
13,000の兵を引き連れ本能寺へ突き進んだのである。
というのが、この番組の内容です。
どうでしょう? 私は、ずいぶん参考になりましたが・・・。
でも、これが謀反の理由だ!というのは、他にもあるようです。
それはまた、改めて書くこととし、次回は「本能寺の変」のその後について迫ってみましょうかね。
タイトル : 高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり~ 京都歴史ミステリー本能寺の変SPを見て・・・
暑い夏もイヤ! 寒い冬もイヤ! ですが、ジメジメしたこの梅雨の時期はもっとイヤです。
でも、頑張って働かないと、「おまんま」にありつけまへん!
前回の終わりに、
ここで、のちのち重要なことがひとつあります。
それは、
“ 明智勢は信長の首を取れなかったこと、発見できなかったことです。 ”
どうして、それが重要なのか? それは次回、山崎の合戦で・・・。
と書きましたが、その前に、こんなテレビ番組があったなあと思いだしましたので・・・。
参考にしていただければ幸いです。
以下は、御存知 私の大好きなあの人の番組 「高島礼子・日本の古都」という表記の番組を視聴した内容です。
(すでにこの番組は放送が終了しています。)
番組では、光秀という人物はどういう人物だったのか?を最初に整理してくれています。
歴史小説家の 伊藤 潤 さんは、
光秀は他の織田家家臣とは違い中途採用であったため常に信長に対して忠誠心を見せておく必要があった。
そのためには手段を選ばなかった。
将軍家の足利一族であった義昭に仕えて取り入り、信長に近づいた。
結局は義昭と縁を切り信長だけに仕えるのだが、自分は信長様一途でございますというのを表す必要があった。
信長は実力主義であったため、人情などにほだされていては出世が止まってしまう。
自分の野心のためには、そういう冷酷非情なところも必要であった。と言っています。
歴史研究家で、多摩大学客員教授の 河合 敦 さんも、
光秀は最初、朝倉義景にとりたてられたがこれを見捨て、次に仕えた足利義昭をも見捨てている。そういった意味でも、人を見限る癖があった。
また、比叡山焼き討ちでも積極的であったし、仰木という信長に反対する一族を皆殺しにしろという命令も出している。
そういった意味でも、かなり残虐性があったとみるべきだと言っています。
こうして、丹波を任されるまで出世して行ったのだが、光秀のこうした信長に対する忠誠心は本心だったのか?
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」には光秀像がこう書かれている。
“ 裏切りや密会を好み、刑を科するに残虐で独裁的であったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争において謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人である “
これこそが、信長の信頼を勝ち取るための、光秀の素顔であったかもしれない。と・・・。
そして、信長を裏切る心はいつ沸き起こったのか?
何が彼を本能寺の変へとかりたてたのか?
伊藤 潤さんは、
源頼朝の鎌倉時代も足利尊氏の室町時代も家柄が大きくものをいって、その力で号令して幕府を築いたが、信長は武力により他国を切り取りその力で天下統一を目指した。
と語り、
番組では
このようなやり方に名門武士出身の光秀は共感できたのか?としています。
そして、光秀を悩ましたのが、大きすぎる「信長の野望」であったと・・・。
それは、天下統一後のターゲットはアジア大陸に広げるとのプランを持っていた。と・・
これに続き、伊藤 潤 さんは、
今ままでは、同じ目標で、同じベクトルであったが、信長のアジア進出の話には、「えっ?まだやるの?」というふうに考えていたのではないだろうか?
天下統一しても、まだまだ、手を緩めず家臣は働かねばならない。信長より年上の光秀は、そろそろ引退してもいいくらい思っていたのに、まだ働かされる。こういうことも、謀反の心をもった理由のひとつではないか?と言っておられます。
終わりの見えない戦乱の世。名門武士に生まれ、本来保守的であったと言われる光秀には、胸に秘めたひとつの願いがあった。
その願いは、古いものを破壊し、全てを我が物とする信長の元では、実現できない物であった。
それが、以前のブログでご紹介した、愛宕山 連歌の会 愛宕百韻で、光秀は、土岐家再興を願っていたのではないか?と番組では結論づけています。
ただ、愛宕百韻で謀反の決意表明をしても、謀反を成功させる為には、部下たちを説得しなければならない。
光秀の家臣は、ほとんどが信長が派遣した与力であり、信長のスパイでもある。これは信長にすれば安心材料のひとつである。
もちろん彼らは、光秀も信頼しているが・・・。
光秀が抱いた謀反の心を万一密告されれば、全て計画はとん挫してしまうことになる。
したがって、この家臣への説得がカギを握っていたのである。としています。
結局、謀反の前日に、家臣5名に打ち明けるのだが、全員反対したということです。
特に、光秀の右腕とされていた、斎藤利三(さいとうとしみつ)を説得する必要があった。
斎藤利三と四国の大名、長宗我部元親は親戚関係にあり、信長と長宗我部は同盟関係にあった。
しかし、信長はこの同盟を一方的に破棄し、長宗我部に領地明け渡しを迫った。
長宗我部は、しぶしぶ、この要求をのんだが、それでも信長は兵を四国に送る準備を始めた。
利三にとっては、これは身内の危機である。信長に母親を殺害された過去をもつ光秀は、利三の心に訴えたと・・・。
そして、冷酷な信長への憤りを巧みに利用し説得に成功したとしています。
これで、家臣たち一同は一気に光秀について行ったと言っています。
信長は、数々の謀反を切り抜けてきたが、生涯唯一の失敗を犯してしまった。
そして、光秀の策略とは??
長い年月をかけて培った、光秀の忠誠心・・・これが信長の最大の失敗であったし、これこそが、光秀の策略であったのではないか?
光秀は、決して謀反を計画的に進めてきたのでは無いと言われている。
最強の男、信長に生じた、言わば奇跡の油断。
それこそが、光秀を一気に本能寺の変へとかりたてたのだ。
信長の油断とは・・・。
事件の前日、本能寺で自慢の茶器を披露する茶会を開くため、信長はわずか30人程しか従えずに宿泊していた。
いざとなれば、直ぐ近くに、腹心の臣下光秀がいると安心しきっていた。
その日多くの武将たちも京都付近にはいなかった。
羽柴軍は中国で毛利軍と対峙。柴田軍は北陸で上杉軍と対峙。滝川一益は北条勢討伐で上野へ。丹羽長秀は大坂は堺へ、それぞれ散らばっていた。
万一、彼らが謀反を知っても直ぐには京へ駆けつけることは出来なかった。
光秀は、これらの状況を見て「今だ!」と決断。
13,000の兵を引き連れ本能寺へ突き進んだのである。
というのが、この番組の内容です。
どうでしょう? 私は、ずいぶん参考になりましたが・・・。
でも、これが謀反の理由だ!というのは、他にもあるようです。
それはまた、改めて書くこととし、次回は「本能寺の変」のその後について迫ってみましょうかね。
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