Bishop さんの日記
2019
6月
25
(火)
22:45
本文
愛宕百韻は光秀が謀反の意を固めていたであろうことが解る内容ですが、いよいよ本能寺の変に至るまでの様子を以下、「信長公記」を元に記述します。
愛宕神社で連歌の会を開いたのが、天正10年(1582年)5月28日。その少し前、羽柴秀吉が毛利攻めのため備中へ出陣し、清水宗治の高松城を水攻めにしようとしていました。これに対して毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて駆けつけ、秀吉軍と対陣しました。
信長は、この情勢を聞いて自ら出陣して中国から九州まで一気に平定しようと決心し、堀秀政を秀吉の元へ派遣し、あれこれ指示を出し、明智光秀・細川忠興・池田恒興・塩川吉太夫・高山右近・中川清秀に先陣として出陣するように命じそれぞれの国元へ帰国させ準備をさせました。
明智光秀も5月17日に坂本へ帰城しています。
そして、5月26日に坂本を出陣し丹波の亀山城(亀岡市)に到着し翌27日に愛宕山へ参詣し28日に連歌の会を催しました。
5月29日、信長上洛。
ただちに中国へ出陣する為、またすでに主だった武将たちに、安土城の留守居役を手配し、先陣の準備を指図していた武将も国元へ帰っていたため、小姓衆20~30人程度の伴だけであったようです。
一方、信長に饗応を受けていた家康一行はどうしたでしょう。
信長から、この際、京・大坂などを見物して帰られたらどうかと勧められ、京・大坂・奈良と訪れ、5月29日には堺へ移動しました。
6月1日夜、光秀は明智秀満・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤利三らと相談して、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げました。
亀山から中国筋へは三草山を超えるのが普通ですが、光秀はそこへは向かわず、亀山から馬首を東に向け「老(おい)の山へ上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵たちには触れておき、先に相談した武将たちに先陣を命じました。
兵たちは、家康を討ち取るのだと思い込んでいたようです。
その理由は、後日、『謀反の理由』のところで書くことになるかもしれませんが、ここでは長くなるので止めておきます。
老の山へ上ると、右へ行く道は山崎・天神馬場を経て摂津街道、左へは京都へ出ます。
ここを、左へ下り、桂川を超えたあたりで明け方になりました。
現在の本能寺は、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町。寺町御池の寺町商店街を少し下がった左手にあります(1592年、秀吉の命にて移転)が、当時の本能寺は、四条西洞院
にありました。中京区小川通蛸薬師元本能寺町
少し前まで本能寺小学校がありましたが、現在は特別養護老人ホームになっています。
近くには堀川高校があります。
明智光秀の軍勢は、信長の宿所本能寺を包囲、兵は四方から乱入。
明智勢は鬨の声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち込んで来ました。
信長「さては謀反だな、誰の仕業か」
森長定「明智の軍勢と見受けます」
信長「やむをえぬ」と一言
明智勢は間断なく御殿へ討ち入りし信長側のお小姓たちは次々と打ち取られていきました。
信長は、初めは弓をとり防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れ、その後は槍で戦いました。
しかし、肘に槍傷を受けたため退き、それまで付き添っていた女房衆に「女たちはもうよい、急いで脱出せよ」と言って退去させました。
すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきました。信長は敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹しました。
以上、若干とばしましたが、「信長公記」に書かれています
前々回、福知山城へ赴いたことはこのブログであげましたが、その福知山城の城内史料館で、下記のようなことが書かれた資料がありました。
本能寺の変に関する史料は2つあり、1つは「信長公記」。そしてもう1つは当時日本で布教活動をしていた「イエズス会宣教師の報告書」があるとのこと。
(「イエズス会宣教師の報告書」・・・フロイス『日本史』と『イエズス会士日本年報』)
この2つの史料は、
「寺内にいた者たちは、皆殺しになったはずだが、女たちは脱出できたであろう。また、信長が身近に連れ歩いていた一人の黒人奴隷がいたが、彼は本能寺が焼ける落ちる前に脱出し、信長の嫡男信忠が籠った二条御所に入って戦い、捕虜になった。結局、この黒人奴隷も生き延びた。さらに光秀をはじめ配下の将士も、山崎合戦までは生きていたわけだから、その間に多くのことを語ったものと推定される。」
こうした人々の証言が「信長公記」、「イエズス会宣教師の報告書」の情報源になったのだろうとしています。
しかし「信長公記」と「イエズス会宣教師の報告書」には微妙に表現が違うと書いてあります。
長くなるので「イエズス会宣教師の報告書」を細かく書きませんが、「信長公記」と違うのは、
①「信長公記」では、信長は最初弓を取って戦い、その後、鑓で戦ったが、肘に鑓傷を負ったとしていますが、「報告書」には、信長が手と顔を洗い手拭で身体をふいているところを背中に矢を受け、その矢を引抜き、薙刀を手にして戦ったが、腕に銃弾を受けたとしています。
②「信長公記」では火を放ったのが誰か曖昧だが、「報告書」では、信長自身が火を付けたとしています。
どちらにせよ、信長はこの本能寺の変によってこの世を去ったのでした。
ここで、のちのち重要なことがひとつあります。
それは、
“ 明智勢は信長の首を取れなかったこと、発見できなかったことです。 ”
どうして、それが重要なのか? それは次回、山崎の合戦で・・・。
番外編
夢か? うつつか? ふれでぃまーきゅりーが私に乗り移ったか?
しかし、よく似ている!
愛宕神社で連歌の会を開いたのが、天正10年(1582年)5月28日。その少し前、羽柴秀吉が毛利攻めのため備中へ出陣し、清水宗治の高松城を水攻めにしようとしていました。これに対して毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて駆けつけ、秀吉軍と対陣しました。
信長は、この情勢を聞いて自ら出陣して中国から九州まで一気に平定しようと決心し、堀秀政を秀吉の元へ派遣し、あれこれ指示を出し、明智光秀・細川忠興・池田恒興・塩川吉太夫・高山右近・中川清秀に先陣として出陣するように命じそれぞれの国元へ帰国させ準備をさせました。
明智光秀も5月17日に坂本へ帰城しています。
そして、5月26日に坂本を出陣し丹波の亀山城(亀岡市)に到着し翌27日に愛宕山へ参詣し28日に連歌の会を催しました。
5月29日、信長上洛。
ただちに中国へ出陣する為、またすでに主だった武将たちに、安土城の留守居役を手配し、先陣の準備を指図していた武将も国元へ帰っていたため、小姓衆20~30人程度の伴だけであったようです。
一方、信長に饗応を受けていた家康一行はどうしたでしょう。
信長から、この際、京・大坂などを見物して帰られたらどうかと勧められ、京・大坂・奈良と訪れ、5月29日には堺へ移動しました。
6月1日夜、光秀は明智秀満・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤利三らと相談して、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げました。
亀山から中国筋へは三草山を超えるのが普通ですが、光秀はそこへは向かわず、亀山から馬首を東に向け「老(おい)の山へ上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵たちには触れておき、先に相談した武将たちに先陣を命じました。
兵たちは、家康を討ち取るのだと思い込んでいたようです。
その理由は、後日、『謀反の理由』のところで書くことになるかもしれませんが、ここでは長くなるので止めておきます。
老の山へ上ると、右へ行く道は山崎・天神馬場を経て摂津街道、左へは京都へ出ます。
ここを、左へ下り、桂川を超えたあたりで明け方になりました。
現在の本能寺は、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町。寺町御池の寺町商店街を少し下がった左手にあります(1592年、秀吉の命にて移転)が、当時の本能寺は、四条西洞院
にありました。中京区小川通蛸薬師元本能寺町
少し前まで本能寺小学校がありましたが、現在は特別養護老人ホームになっています。
近くには堀川高校があります。
明智光秀の軍勢は、信長の宿所本能寺を包囲、兵は四方から乱入。
明智勢は鬨の声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち込んで来ました。
信長「さては謀反だな、誰の仕業か」
森長定「明智の軍勢と見受けます」
信長「やむをえぬ」と一言
明智勢は間断なく御殿へ討ち入りし信長側のお小姓たちは次々と打ち取られていきました。
信長は、初めは弓をとり防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れ、その後は槍で戦いました。
しかし、肘に槍傷を受けたため退き、それまで付き添っていた女房衆に「女たちはもうよい、急いで脱出せよ」と言って退去させました。
すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきました。信長は敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹しました。
以上、若干とばしましたが、「信長公記」に書かれています
前々回、福知山城へ赴いたことはこのブログであげましたが、その福知山城の城内史料館で、下記のようなことが書かれた資料がありました。
本能寺の変に関する史料は2つあり、1つは「信長公記」。そしてもう1つは当時日本で布教活動をしていた「イエズス会宣教師の報告書」があるとのこと。
(「イエズス会宣教師の報告書」・・・フロイス『日本史』と『イエズス会士日本年報』)
この2つの史料は、
「寺内にいた者たちは、皆殺しになったはずだが、女たちは脱出できたであろう。また、信長が身近に連れ歩いていた一人の黒人奴隷がいたが、彼は本能寺が焼ける落ちる前に脱出し、信長の嫡男信忠が籠った二条御所に入って戦い、捕虜になった。結局、この黒人奴隷も生き延びた。さらに光秀をはじめ配下の将士も、山崎合戦までは生きていたわけだから、その間に多くのことを語ったものと推定される。」
こうした人々の証言が「信長公記」、「イエズス会宣教師の報告書」の情報源になったのだろうとしています。
しかし「信長公記」と「イエズス会宣教師の報告書」には微妙に表現が違うと書いてあります。
長くなるので「イエズス会宣教師の報告書」を細かく書きませんが、「信長公記」と違うのは、
①「信長公記」では、信長は最初弓を取って戦い、その後、鑓で戦ったが、肘に鑓傷を負ったとしていますが、「報告書」には、信長が手と顔を洗い手拭で身体をふいているところを背中に矢を受け、その矢を引抜き、薙刀を手にして戦ったが、腕に銃弾を受けたとしています。
②「信長公記」では火を放ったのが誰か曖昧だが、「報告書」では、信長自身が火を付けたとしています。
どちらにせよ、信長はこの本能寺の変によってこの世を去ったのでした。
ここで、のちのち重要なことがひとつあります。
それは、
“ 明智勢は信長の首を取れなかったこと、発見できなかったことです。 ”
どうして、それが重要なのか? それは次回、山崎の合戦で・・・。
番外編
夢か? うつつか? ふれでぃまーきゅりーが私に乗り移ったか?
しかし、よく似ている!
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