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ふろーる さんの日記
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ふろーる さんの日記

 
2020
3月 17
(火)
09:53
後30分 2018/3/11過去Blog
本文
もう後30分ほどであの日のあの時間がやって来ます。
岩手は被災地です。
揺れもとてつもなく大きくて初めての体験でした。
昔々、昭和の頃に十勝沖地震で震度5の時は 小学校の講堂で全校集会の真っ只中で
骨組みだけの講堂の天井が大きく揺れるのを見て怖かった。
パニックになった小学生たちが先生の制止も聞かずに走り出し
ドン臭い私は後ろから押されて倒れ、足を思い切り踏まれた。
地震が治まり再び講堂に集合した時
壇上の教頭先生が、踏まれた私がすすり泣くのを見て
我先にと友達を踏んでまで逃げるとは何事だと叱ってた。

3.11の時は自室の障子がぐにゃりと歪んで見えた。
つけてたPCは揺れている間、必死にCRTを押さえているうちに電源が切れた。
本が雪崩のように落ちて表紙もページも折れ曲がって見る影もなくなった。
ああ、もう元の綺麗な装丁じゃなくなった、なんて心の隅では怯えながらもそっちにも考えが及んでしまった。

停電で暖房が使えなくなり、寒くなって来た。
とりあえず、外はどうなっているのかと出てみると雪が降ってきた。
ああ、ますます寒くなると思った。
近くの交差点の信号機はついていない。
コンビニも電気は消えているが、何か必要なものを買って帰ろうとおもったら
レジ前は長蛇の列。棚の品物も空。
電卓を使い、ペンで伝票に書き込みながら客を捌く総出のスタッフ。
買えるものは煮て食べるインスタントラーメンとか、ティッシュとかしかなく、すぐに必要なものは既になかったのが揺れてから1時間後の話。
真っ暗くなったホームセンターはラジオが完売。
帰宅途中、消えた信号機の交差点には巡査が立って手信号で車を誘導し始めていた。

帰宅して母に話すとTVがつかないから
地震の情報も判らないし、他がどうなってるかも判らないというので
はっと気付いた私が、車のエンジンをかければラジオは聴けると教えた。
母はラジオを聴いてきて、どうやら沿岸部の津波が酷い事になっているらしいと。

震度5の地震では普段、沿岸部の津波は1m程度だったから
それでもさほどでは無いだろうと思っていた。
3日間、それから他の被災地の情報は入らないから、父方の親戚の消息も解らないでいた。

それよりも目下の問題は電気炊飯器が使えない事
ヒータータイプの石油ストーブが使えない事 夜に電気がつかないこと。
既に夕暮れ時で、文字が読める明るさではなくなった、揺れから2時間後。
何度も来る揺り返しの大きさに怯えながら 仏間からローソクを3本、自室に持って行った。

そして知ったのは、昔の人がローソクで勉強したというのがどれだけ目を酷使したのかということ。
1本のローソクの明かりだけでは読書も出来なかった。
音楽も聴けない、シーンとした暗い部屋で
ストーブもなしで布団の中で暖を取るしかなかった。

母が物置から、古い反射式ストーブを出してきた。
断舎利下手な母に古いものは捨てた方がいいと進言してきたが、このときだけは助かった。
そしてまだ辛うじて生きているガスを使い、鍋でご飯を炊いた。
電子レンジも使えないので、翌朝は残りご飯でおじや。

そして、バスタブに水は溜め込んでおいたけれど
とうとう翌日の夜には水道が止まった。
WCはこれからバスタブの水をバケツにとり 自力で流すしかなくなったが
丸一日、母、私、弟で使うWCは翌々日に限界が来た。
どーすんの、これwww

三日目の夜、窓の外は真っ暗だったが、ふと気付くと遠くに明かりが見える。
NTTの支社の明かりだ!
そして当時使っていたPHSが復旧して
隣町に住むmixi友達が連絡してきた。

何もすることがないので、二人でとりとめなく話をしているうち
友達の近所は通りの向こうまで明かりがついたと言う。
もう少しだね、などと10分ほど話をしていた時に
「ブンッ」という音がしてPCが起動して、部屋の蛍光灯が瞬いた。
19時頃だったろうか。
お互いに携帯で万歳を唱和して、また普通の生活に戻っていった。
WCの問題も解決!←一番先に思ったのがこれw

そして暖を取れる幸せに浸り
PCがすっかり立ち上がり、自動でskypeが立ち上がった途端
けたたましくskypeが呼び出し音を鳴らし
ネットの友人たちのグループ会話から呼ばれた。
ヘッドセットをつけて対応すると
口々に関西や九州、東京方面からいたわりの言葉を頂戴し
随分心配かけたのだと知った。
津波は大丈夫と口々に云われ、ここは内陸だから大丈夫と何度も返答した。
それが何故そこまでだったのかは
階下に下りて茶の間のTVを観てからだった。
始めて知った、沿岸部の壮絶な状況。

◆三陸の山田町
16歳の頃、親戚のところに泊りがけで海水浴に行ったっけ。
◆三陸の浪板海岸。
小3の頃に始めて海に行った場所。
◆釜石の砂利だらけの海岸。
中3の頃行った、母の知人に招待された海水浴。採れたてのウニはつめたいおにぎりに載せて食べると美味しいと知った場所。
◆父が素もぐりを見せてくれた浄土ヶ浜
遠浅の浜を歩くと海生生物が沢山居てイソギンチャクを踏んでしまったっけ。
磯溜りにはウニやカニ、イソギンチャクが沢山海草の間から見えて美しさに見とれた場所。
◆宮城県三陸町
丁度その4ヶ月前にネット友人から誘われて 今避難所になっているあの体育館にコンサートを観に行ったばかりだ。

全てすべて見る影もなかった。
浄土ヶ浜は地形が全く変わってしまい
思い出が消えてしまったようにさえ思えた。

内陸部なので私のところはそれでも随分幸運だったんだな。
命がある。
この3日だけで200回以上余震があった。
震災から一週間は服を着たまま寝た。
また大きく揺れたら、すぐに寒空に逃げられるよう。
1年経過しても、2年経過しても、地震(余震)の度にすぐに目が覚めた。
本能がONになってしまっているんだろう。
どんなに日常に戻っても、これだけは戻っていないのだ。
今、7年を経過してやっと地震に対して
この揺れなら大丈夫と理性的に判断が出来るように戻った。

沢山の情報から遮断された後
怒涛のような情報に埋もれて知らないでいたけれど
日本女性と事実婚状態だったキース・エマーソンが
すぐさま追悼の曲を作ってくれていた。
そんな事も知ったのは、2年後だった。



亡くなられた方の中には、私の遠い親戚も要るだろうと思う。
父は早くに母と別れ、別の家庭を持っているので、かつて一緒に遊んだ従兄弟たちとも交流が途絶え、それより遠い親戚となると皆目解らない。
沖縄には「命ど宝」(ぬちどたから)という言葉があるけれど、沖縄戦と比ぶべくもないけれど、それでも本当にこの言葉の通りなのだろうと思う。
亡くなられた皆様のご冥福を祈念するとともに
命繋がった皆様が幸せでありますように
と願わずにはいられない。
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