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ふろーる さんの日記
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ふろーる さんの日記

カテゴリー [呟き] 
 
2020
8月 16
(日)
19:24
花火は音だけでいい
次の日記 カテゴリー  呟き
本文


今年は様々なイベントが自粛ムードで
本来ならこちらも今日は昔からの花火大会の日。

多くの人が夏の風物詩もなく寂しく思っているだろう。
一番の花火は半世紀以上前の思い出で充分だから。
私にとって、あれ以上の花火はない、父との思い出。
今の住まいは丘の下になるので音だけしか聞こえないがそれでいい。
音が齎してくれるのは、あの日の光景なのだから。

多分3歳の頃だったと思う。
確か事故に遭って骨折したのが2歳だったのでその翌年だった筈。
城下町に住んでいた頃、大人の足で15分程度で花火の揚がる土手に着く。
父に背負われふたりだけで花火を見に行った。

あの頃の盆は日中最も暑く、それでも夕方を過ぎると涼しい風が出て
夜もぐっすり眠れる気候だったためか
父はずっと私を背負っていたけれど私は暑く不快な記憶がない。
川べりの土手の上で人込みに紛れて父とふたりで花火を見た。
背負われていても、腹の底にまで響くような轟きがドンと鳴る。

父の背中でオレンジ色の大きな花に見惚れていると
何やらフワフワと落ちてくるものがある。
屋根のあちこちに黄色やピンクのフワフワが落ちるのを見て
「あれなに?」と訊いた憶えがある。
「落下傘だよ」と父が答え、「欲しいか?」と尋ねられた。
頷くと「よし、拾いに行こう!」と勢いよく走り出す。



すかさず私を背負ったまま勢いよく土手を離れ
古い町並みを落下傘が漂う方向に向けて疾走する父。
追っていたのは黄色い落下傘だった。
多分、大きさは全長30㎝程。花火に仕掛けてあったのだ。
落下傘を追って未だ細くて暗かった道をひた走る父。

ぽつりぽつりと、かなり離れた感覚で電柱に白熱灯の薄暗い明かりが灯る中
「ここじゃないなあ」と言いながら、あちこちの通りに向かってまた走る。
夜道は暗がりが広がっているのでとても怖かったあの頃。
しかし、父が一緒だと怖くなかった。
あちこち探しまわったけれど、風に流されたのか見つからなかった。
空手で私を背負ったまま家路につく父。
今となれば、私以上に残念だったであろう事に思い至る。

5年前の6月末。2か月半も経過してから
再婚した父の後妻から手紙が届いた。
父が4月に亡くなったと。
遺産は私と息子が分ける予定だけれど貴女様はどう思いますか
という不躾な内容だったし、その後もまだ揉めているがそこはまた別の話。

最初は長いこと離れていたせいか、無感動でしかなかった。
日が経つにつれ徐々に徐々に訪れた、母から聞かされていたのと違う父の記憶。
なんだ、私達は母の悪口に洗脳されていたのだ。
実家の弟にも、嫁いだ妹にも同様の手紙が届き、妹と随分話した。
地元で生きた妹、弟の二人はまだ父と接点があったが
ずっと都会にいた私は殆ど会う事がなかったし
養育費もなかった父は私を捨てたのだと思い込んでいたが
大人になった今、全てを振り返ってみるとそうではない事が漸く見えた。

まるで父の最期の置き土産のように、私たちきょうだいは洗脳が解けた。
母の味方で私を嫌っていた妹が連絡を寄越し、私の味方だと言う。
昔ながらの姉妹付き合いが戻った。
「きょうだい仲良くしろよ」と言っていた父の声が聞こえるようだった。
そしてお互いの記憶をすり合わせるように子供時代を話し合う。
互いに父の本当の姿を構築していたと思う。
父が我が実家を訪れ、母が都会にいる私の悪口を言い始めた際
「あんなに可愛かったじゃないか!」と子供時代の私を挙げて抗議したそうだ。
父の中では依然、思い出とともに別れた子への愛があった。

親が子供に親を憎むように仕向けると言う事は
何と罪深く業が深い事なのだろうとつくづく思う。
子供に自分と同様に父親を憎むよう悪口を吹き込むなぞ
母は母で、救われる事のない運命を背負っているのかもしれない。
以来、妹は激しく母を憎むようになったが、そこはまた別の話。

その夏は数多くの思い出が去来して寝るのが辛かった。
子供目線での思い出を逐一、大人目線に変換していくと見える姿は・・・。
花火の夜、小さな手が両肩につかまる感触とともに走る父の気持ち
当時、父は27か28くらい。
落下傘を追い懸命に走る若かりし日の父。

園児時代、火鉢でコテを焼き丁寧に髪をカールしてくれたあの時
姉妹揃って当時のキャラメルのパッケージの女の子みたいにしてくれた。
ある時は私の前にじっと座り、何度も私の髪を梳り
ヘアスタイルをあれこれいじって考え込む父を見つめる私への思い。
中学入学、高校入学、卒業、本当は成長を見たかっただろう。
年度ごとに父の心には願っても叶わない苦しみが溜まって行ったのだ



私が幼いころ、釣りが好きでよく遠出しては獲物を持ち帰る父。
夜に帰宅してから、台所で大きな魚を処理していた、見事な包丁捌き。
何しろ自分専用の刺身包丁まで所持していた海辺育ちだ。
自宅で仕事をしていた父の描く看板をじっと見つめていた自分。
下書きからはみ出る事なく、一筆で文字を塗り潰していく巧みな手。
その傍らで父の仕事道具の色見本を眺めては沢山の綺麗な色彩に見惚れた。

両親の離婚原因は浮気でもなんでもない。
母が父を嫌って遠ざけたのだ。
何度も父は歩み寄ったが意固地になって撥ねつけていた。
結果、10年しか一緒に暮らしていなかった父が願っていたのは
私達きょうだいと暮らせる家庭。
その為なら母の尊大で我儘な性格を我慢しても余りあると思っていただろう。
そして私達を母から守りたかったのだとも思う。

父が周囲からの熱心な勧めに折れ、再婚してから会う頻度は減った。
それでも何度も電話で呼び出しては内緒で会った。
ある日、デパートの楽器売り場で妹と私に買ってやろうか?
とアコーディオン売り場の前で訊いた。
欲しかったけど母が怖いから、怒られるから返答出来なかった。
昭和40年代。当時の値段は8000円ほど。
今現在であればら、幾らほどになるのだろう。
今でも妹が話す。あの時アコーディオン買って貰えば良かったねと。

あれから花火の音が聞こえる都度
あの幼い日の光景が甦り、短い10年の暮らしだったけれど
父の一生分の愛情を受けたのだと悟った。
もう、無かったものを悔やむ気持ちはなく、受けた10年で充分だ。
私の心は未だ、父と追いかけた黄色い落下傘とともにある。

きっと私のところにも会いに来てくれていただろう父を
この思い出とともに今日、見送りたくなりカキコ。



昭和の時代は花火は「揚がる」ものだったので当時の漢字をあてました。
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