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Bishop さんの日記
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Bishop さんの日記

 
2019
7月 24
(水)
00:07
そろそろまとめます。
本文
ようやく、梅雨も明けるのでしょうか?

一息つく間もなく、今度は猛暑がやって来ます。

体調管理に気をつけて乗り切りましょう。



さて、この明智光秀についてのブログですが、3つのおおきな疑問がどうしても残ります。

1 織田信長の首(遺体)は何処へ消えたか?
2 明智光秀が謀反を起こしたその理由は?
3 明智光秀は山崎の戦い(天王山の戦い)で敗れ去り、坂本城へ逃げ戻る途中で落ち武者狩りに襲われ落命したとされているが、本当は生き延びて徳川家康の側近南光坊天海となった とされている意見もあるが、はたしてそれは事実か?

まず、ひとつ目の疑問については、前回のブログで下記のように書きました。

「信長の首や遺体が見つからなかったのは、あまりの火の勢いで、その存在が失せたか、もしくは、阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょく しょうにん)がその遺骸を持ち去り、寺に埋葬したかのどちらかだと、私は思います。」・・・と。

しかしその後、インターネット上で発見したことがあります。
そこには、

『 なぜ、本能寺の焼け跡から見つからなかったのだろうか。考えうるのは、誰かが本能寺の外に運んだか、もしくは遺体が完全に灰燼に帰したか、のいずれかしかない。
- 中略 -
一つは、京都にある浄土宗の阿弥陀寺である。本能寺の変の直後、信長とかねてから親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が、信長の遺骸を運び込み、埋葬したという。実際、境内には「織田信長信忠討死衆墓所」がある。文字通り、信長だけでなく、子の信忠や家臣の森蘭丸など、一連の戦いで討ち死にした人々が弔われている。当時、僧侶は俗世とは無縁の存在とみなされていたから、清玉上人が本能寺に入ることは認められたろう。
もう一つの寺院は、京都から遠く離れた駿河国(静岡県)にある日蓮宗の西山本門寺である。この西山本門寺の第18世日順上人の父が原宗安という武士で、この原宗安が関係しているのだとされる。本能寺の変の前夜、実は本能寺において日蓮宗の僧侶である日海上人が鹿塩利賢と囲碁の対局を行っていた。ちなみに、日海上人は、のちに本因坊算砂とよばれる囲碁の名手であり、原宗安は、この日海上人に従っていたものかもしれない。本能寺の変で信長が自害したのち、原宗安は日海上人に託され、信長の首を密かに本能寺から持ち出し、本門寺に埋葬したのだという。 』

『』内はいずれも、JBpress 2018.10.16(火)小和田 泰経 氏の「本能寺の変、死を覚悟した信長がとった最期の行動」より抜粋しました。

この中の、静岡県 本門寺に持ち出されたことは、私は知りませんでした。

しかし、次のようなことも書かれています。
まず、静岡本門寺に運び出されたということに関しては、
『 駿河国は徳川家康の領国である。京都から駿河国に行くまでには、信長の本国である尾張国(愛知県)を通るわけで、信長の嫡男信忠は自害していても、信長の一族や家臣に渡すこともできたろう。あえて、遠くの駿河国まで運んだ理由は定かではない。 』との疑問を投げかけている。
また、二つ目の京都 阿弥陀寺に埋葬されたことに関しても
『 実際に信長の遺体が埋葬されているのかどうかは、わからない。いくら世俗と無縁だからといっても、信長の遺体を運び出すことは、光秀に認められるはずもないからである。それに、もし遺体が確かに埋葬されていれば、豊臣秀吉が大徳寺での信長葬儀の為に、わざわざ信長の木像を焼いて遺灰代わりにする必要もなかったろう。信長ゆかりの人物の墓所にもなっていることからすると、本能寺や妙覚寺で見つかった遺骨を集め、信長・信忠父子をはじめとする「討死衆」として供養したものかもしれない。 』と、これも疑問視している。
この二つ目の疑問視に私は反論したい。
清玉上人は、秘密裏に運び出したので、光秀に認められるとか云々は関係ない。
あるいは、信長自身が、敵に首を渡す事だけは避けたかったために、家臣か誰かに命じて首は阿弥陀寺の清玉上人に渡せと指示していたかもしれません。
秀吉は、信長の葬儀を当初、この阿弥陀寺において行う予定でした。
それは、戦後、秀吉も信長の首がどうなったのか徹底的に調べたはずです。そして阿弥陀寺の清玉上人が埋葬したとの情報が入ったためだと思うのです。
しかし、清玉上人はこの秀吉の申し入れを断りました。
それは、秀吉が、織田家に対する「簒奪(さんだつ)」を企てたであろうと推測したからにほかなりません。
結局、阿弥陀寺は、秀吉の命令で規模を1/6に縮小され、現在の場所に移されたのです。
(詳しくは 私の去年9月5日のブログに書いています。)
だから、秀吉はしかたなく、信長の木像を作り大徳寺で法要を行ったと思います。

どうでしょう。
みなさんは、どう思われますか?
独自で調べてみるのも面白いと思いますよ。

あっ! 最後におまけ。
黒田官兵衛といえば、岡田准一ですか?
そう思ってるあなたのイメージを壊しましょう。(笑)




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