tinc さんの日記
2020
7月
25
(土)
18:25
本文
人の世には言説が溢れる。感情を表現するもの、美を描くもの、理論を探求するもの、疑義を呈すものと言説の性質は無数にある。そして言説は具体的な個であれ集団であれ、あるいは抽象的な存在に対してであれ、その向かう先、対象を持つことも多い。
私はこのハピスロ世代のブログを喩えれば鏡に向かうような気持ちで書いているところがあり、こうして書くという行為は自身の感情や思考や想像などの産物を言葉で表現することで自身の精神の様子を把握しようという目的に基いている。しかし他者の目に触れる可能性のあるものであるので、その時々で実在しない何者かを想定してその何者かが読むものであることも前提に入れている(特定個人を想定したことは現時点で無い)。したがって私のブログは自分自身と仮想の読者という2つの対象を持っている。
当初想定していなかったのは実在する他の方からのコメントである。内容面でも表現面でも自分のブログが誰かの反響を得るものになるとは思わなかったので、他の方との交流が成立するとすれば専ら私に初動があるものと想像していた。実際にコメントを頂いてみるとそれによって自身の表現が客観化され、また異なる視点や概念を得ることになるため、自身を把握するという原点は変わらなくてもブログを書くという行為の次元が飛躍的または爆発的に拡大されたように思っている。
どのような意図を持って放たれた言説であれ、またそれが当初誰へ向いていようと、話者が想定しなかったはたらきをすることがあるものだ。特に時事に関しては多くの場合様々の言説が行き交う。それらは同調したり対立したりしながら伝播し、誰が誰へ向けた言説であるかを知ることが実質的に不可能になることも多いように思う。
昨今の報道を受けての言説に多く見られるのは自死の是非に関するものである。いかなる条件においても自死は許されぬという意見もあるし、妥当であれば自死もやむなしとも、そもそも自由であるとも言われている。これらは基本的に並立しないため、いずれかを是とし他を排さねばならぬようにも見えるのであるが、私としてはそれらの言説は自死の是非についての論理的解決を目指して議論しているものではなく、それぞれ異なる対象を持っているために交わらないものになっているように感じている。
私のように平時を呑気に生きている人間の想像を絶する苦痛に苛まれた末生に転ずる手立て無く自死を表明した人が仮にここに1人いるとする。私はこの本人に対してはせめて安らかに死んでほしいと願うであろうし、自身に対しては健康に感謝し有意義に生き続けよと命じるのではないかと思う。死ねというのと生きよというのとは反対であるが違う対象へ向いているから並立する。特定の他者、不特定の他者、自身、仮想の存在、等々、対象によって言説の内容が大きく異なることはむしろ通常であると思う。それでは死生について普遍的なことを言っていないではないかという批判もあるだろうしそれは妥当な批判であるのだが、普遍的なことを言うことは概ね難しい。
何をどのように言うのかは重要である。そしてそれを誰へ向けて言うのかも時に同じく重要である。ひとの意図はある程度他人が推し量るところもある。説教好きが口すっぱく言うことは存外その説教好き自身が自身へ言い聞かせていることもよくある。私の状況をよく言い当て共感を呼び起こす手紙の宛先は私ではないかもしれない。もしかすると私のように鏡に話しかけている人も多くいるのだろうか。
私はこのハピスロ世代のブログを喩えれば鏡に向かうような気持ちで書いているところがあり、こうして書くという行為は自身の感情や思考や想像などの産物を言葉で表現することで自身の精神の様子を把握しようという目的に基いている。しかし他者の目に触れる可能性のあるものであるので、その時々で実在しない何者かを想定してその何者かが読むものであることも前提に入れている(特定個人を想定したことは現時点で無い)。したがって私のブログは自分自身と仮想の読者という2つの対象を持っている。
当初想定していなかったのは実在する他の方からのコメントである。内容面でも表現面でも自分のブログが誰かの反響を得るものになるとは思わなかったので、他の方との交流が成立するとすれば専ら私に初動があるものと想像していた。実際にコメントを頂いてみるとそれによって自身の表現が客観化され、また異なる視点や概念を得ることになるため、自身を把握するという原点は変わらなくてもブログを書くという行為の次元が飛躍的または爆発的に拡大されたように思っている。
どのような意図を持って放たれた言説であれ、またそれが当初誰へ向いていようと、話者が想定しなかったはたらきをすることがあるものだ。特に時事に関しては多くの場合様々の言説が行き交う。それらは同調したり対立したりしながら伝播し、誰が誰へ向けた言説であるかを知ることが実質的に不可能になることも多いように思う。
昨今の報道を受けての言説に多く見られるのは自死の是非に関するものである。いかなる条件においても自死は許されぬという意見もあるし、妥当であれば自死もやむなしとも、そもそも自由であるとも言われている。これらは基本的に並立しないため、いずれかを是とし他を排さねばならぬようにも見えるのであるが、私としてはそれらの言説は自死の是非についての論理的解決を目指して議論しているものではなく、それぞれ異なる対象を持っているために交わらないものになっているように感じている。
私のように平時を呑気に生きている人間の想像を絶する苦痛に苛まれた末生に転ずる手立て無く自死を表明した人が仮にここに1人いるとする。私はこの本人に対してはせめて安らかに死んでほしいと願うであろうし、自身に対しては健康に感謝し有意義に生き続けよと命じるのではないかと思う。死ねというのと生きよというのとは反対であるが違う対象へ向いているから並立する。特定の他者、不特定の他者、自身、仮想の存在、等々、対象によって言説の内容が大きく異なることはむしろ通常であると思う。それでは死生について普遍的なことを言っていないではないかという批判もあるだろうしそれは妥当な批判であるのだが、普遍的なことを言うことは概ね難しい。
何をどのように言うのかは重要である。そしてそれを誰へ向けて言うのかも時に同じく重要である。ひとの意図はある程度他人が推し量るところもある。説教好きが口すっぱく言うことは存外その説教好き自身が自身へ言い聞かせていることもよくある。私の状況をよく言い当て共感を呼び起こす手紙の宛先は私ではないかもしれない。もしかすると私のように鏡に話しかけている人も多くいるのだろうか。
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